国後島の陸揚庫を写した2枚の写真 撮影者は札幌逓信局工務課の福井昇さんだった

 この2枚の写真は、1900年(明治33)に根室国後島の間に敷設された海底電信線の国後島側にある陸揚庫のものだ。それぞれ撮影日が記載されているが、誰がどのような状況で撮影したものなのかは不明だった。

 灯台下暗し。根室市が昭和46年12月に発行した「北方領土 終戦前後の記録(第2集)」の中に、写真にまつわる記述があった。写真が撮影された昭和10年当時、札幌逓信局工務課釧路出張所の根室駐在職員だった福井昇さん(元北海道電気通信局職員)が書いた「思い出の国後島紀行」–。それによると、福井さんは昭和10年9月19日、国後島側の電信線や陸揚庫の状況検査のため根室港を出港した。測定器やマイクロコンデンサ、受話器、乾電池、補助アースなど検査機器とともに写真機もリュックに詰め込んでいた。

 白糠泊に到着したのは9月20日午前8時。その足で白糠泊の陸揚庫に向かっている。

「白糠泊ケーブル庫(陸揚庫)は、工手宿泊所から少し離れたところにあった。私は松田工手の案内で、試験盤や避雷装置、地気線の状況、ケーブルの引上げ点などの調査をした。また裸線の引込みなども見たが、異状は認められなかった。(略) 昼間に見て来たケーブル庫の建物が、相当に腐朽していたことを思い出したので、ノートに次のように書き足してから床にはいった。

一、土台の右の石が割れて、穴になったところがある。

二、壁に張ったしたみ板は腐触して、手で容易にはがれる。

三、窓枠、窓覆いや入口の開き戸は、風により外れ落ちそうだ。

四、入口の庇は風雪により落下の危険がある。

五、屋根の柾は強風のため飛び、差柾で補修してあるが雨の漏る所がある。

以上は、至急補修の要があるので、工務出張所長に報告のこと」

 

 福井さんが白糠泊の陸揚庫を検査した日は昭和10年9月20日であり、左側の写真「白糠泊ケーブル庫(昭和10年9月20日)」の日付とぴたり一致している。

 

 その後、福井さんは乳呑路、ポントマリ、植内を経て9月23日に古釜布に入り、26日 に東沸を出発して泊に向かっている。

「(泊から)ケーブル庫までは、約12kmほどの道のりで、ケラムイ岬灯台まではまだ5~6kmもあるのだろう。ケーブル庫は、年中強風にさらされているので、室内は砂ほこりで相当ひどく汚れていた。しかし、試験装置や保安器、ケーブルの引込等に異常はなかった。(略) このケーブル庫から根室町の発足(※ハッタラ)ケーブル庫までは、海底約21浬である。オホーツク海からの流氷も多いことだが、水底は安定していて障害になったことはない。午後早めに国後局に戻った」

 

 紀行文にはケラムイの陸揚庫を調査した日時は明示されていないが、東沸から泊までは20km以上あり、26日に出発して泊に到着して、その日のうちに泊から12km離れたケラムイの陸揚庫まで行くことはほぼ不可能。泊到着の翌日9月27日にケラムイ陸揚庫の検査を行ったと考えるのが妥当だろう。検査を終えて「午後、国後局(※泊にある)に戻った」とあることからも裏付けられる。

 つまり、福井さんがケラムイの陸揚庫を訪ねたのは9月27日で、右側の写真「ケラムイケーブル庫(昭和10年9月27日)」の日付と一致する。

 

 福井さんは昭和10年当時、根室駐在だった。その時には根室側の陸揚庫(ハッタラ浜)は鉄筋コンクリートに建て替えられており(昭和4年改築)、国後島側の陸揚庫の写真を撮っているほどの方なので、根室の陸揚庫の写真を撮影していたとしても不思議ではない。戦前の根室側の陸揚庫を写した写真はまだ見つかっていない。福井さんは戦後、釧路電話局長を務め、文章を書いた当時(昭和46年)は北日本通信建設株式会社嘱託だったとプロフィルに記載されている。

 

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