ルーズベルト大統領 『ソ連が対日戦争の助っ人になるなら、千島は小さな問題だ』

北方領土ノート

『太平洋戦争の勃発からヤルタ会談まで』…④

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南部千島は日本によって保持されるべきである

 ヤルタ会談を前にした1944年(昭和19年)12月、アメリ国務省ソ連との交渉を念頭に、千島列島に関して「南部の諸島(北方領土)は日本が保持すべきである」と結論づけたレポートをまとめていた。

 クラーク大学の日本研究の第一人者であるブレイクスリー教授に調査を委託してまとめたもので、以下のように勧告している。

 ①南部千島は、日本によって保持されるべきである

 ②北部及び中部千島は国際機構のもとに置き、ソ連を管理国とする

 ③いずれの場合も、北方水域における日本の漁業権保持については配慮する

「千島列島南部の諸島に対するソ連の権利を正当化する要因は、ほとんどない。歴史的にも民族的にも日本のものであり、漁業的価値のある海域をソ連に譲渡することは、将来の日本が受入れ難い事態をつくり出すことになる」

 ルーズベルトがこの報告書に目を通した形跡はない。

 報告書作成から70年以上経過しているが、北方領土問題をめぐる今日の状況を的確に予測していた。

ヤルタ会談 北方領土の運命は15分で決まった

 そして1945年(昭和20年)2月、ルーズベルトスターリンチャーチルの米ソ英の三首脳によるヤルタ会談を迎える。

 ヤルタ会談は2月4日から11日まで開かれ、11回の首脳会談がもたれた。その中で、ソ連の対日参戦と千島列島の扱いについて話し合われたのは2月8日、非公式に設けられた米ソ首脳会談においてだった。1992年(平成4年)に日ロ双方の外務省が作成した「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集」に、その時のやり取りが紹介されている。

極東の軍事問題につき幾つか議論した後、スターリン元帥は、ソ連の対日参戦のための政治的条件について議論したいと述べた。スターリン元帥は、この点につき既にハリマン大使と話してあると述べた。ルーズベルト大統領は、右会談に関する報告は受領しており、自分は終戦に際し樺太の南半分とクリル諸島がロシア側に引渡されることに何の問題もないであろうと思うと述べた。(中略) スターリン元帥は、これらの条件が満たされない場合、自分とモロトフにとり、なぜロシアが対日戦争に参加しなければならないのかソヴィエト国民に説明するのが困難となるのは明らかであると述べた。彼らは、ソ連の存在そのものを脅かしたドイツに対する戦争は明確に理解したが、何ら大きな問題を抱えている訳でもない国を相手になぜロシアが戦争に入るのか理解しないであろう。他方、スターリン元帥は、もし政治的諸条件が満たされれば、国民は右に関わる国益を理解し、かかる決定を最高会議に説明することも格段に容易となろう、と述べた。

 スターリンがいう政治的諸条件とは、南樺太と千島列島の領有を含む権益の確保を指していた。会談は、わずか15分で終わり、北方領土の運命が決まった。ヤルタ協定の内容は1946 年(昭和21年)2 月まで秘密にされていた。

ルーズベルトは「千島は小さな問題だ」だと言った

 ヤルタ協定の草案を書いたのはほかならぬスターリンである。ヤルタ協定2の(a)で樺太南部は「返還されること」とされているのに対し、千島列島の記述は別立ての3として独立させて、「引き渡されること」と表現されている。大西洋憲章カイロ宣言で領土不拡大を高らかにうたった連合国としての戦争方針と矛盾することを理解していたからである。

 さらに、スターリンは、三大国の首脳は日本が敗北した後にソ連の要求が確実に満たされることを合意した、という一文を挿入し、念を押した。

 この時の会談に同席していたアメリカの駐露大使ハリマンは、千島列島が日露戦争の前1875年(明治8年)に平和裏に結ばれた条約によって日本の領土になったことを理解しており、ルーズベルトに対して千島列島の譲渡を再考するよう進言した。

 これに対して、ルーズベルトは「ソ連が対日参戦の助っ人になってくれるという大きな利益に比べれば、千島は小さな問題だ」といって取り合わなかった、と回想録で述べている。

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