本日の北海道新聞「朝の食卓」です。祖父と母が国後島を脱出した時の話を書きました。
私は祖父の顔を知りません。母は根室からの迎え船に家財を積み込んだ時には、祖父の肖像画が積まれていたのを記憶していますが、嵐にあって船が遭難し、家財とともに海の藻屑となってしまいました。
恰幅がよく、口ひげを蓄えていた祖父は面倒見もよかったのですが、博打好きが玉に瑕でした。よく花札を使って「とっぱ」をやっていたのを母は記憶しています。
自由訪問で母の生地、国後島の植古丹に行くと、母の同級生や幼馴染の元島民から「あんたのじいさんは議員をやっていたから、運動会で賞品を渡すのが役目で、帳面とかもらったもんだ」と聞かされます。
昨年行った自由訪問では、生家があった場所を教えてもらいました。母が生まれた後に新築し、部屋数が6つある広い家でした。今は、背の低い木々が浜風に揺れているだけです。目の前の海にはトッカリ岩が頭だけ出して、波に洗われていました。
祖父も母も、あのまま島に暮らしていたら、まったく違った人生を歩んでいたのだろう。人生は「一場の夢」–。
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