ソ連占領後の国後島、色丹島、歯舞群島の歴史…クナシリの地元紙「国境にて」の記事から

北方領土ノート

   kurilnews.ru 2019/6/5

南クリル都市管区の歴史から(S.キセリョフ)

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    南クリル地区は1946年6月5日の南サハリン地域の行政及び領土構造に関するソ連最高会議幹部会令に基づいて形成された。

 2005年1月1日、南クリル地区は「南クリル都市管区」の地位を与えられた。国後島では都市型居住地としてユジノクリリスクをはじめ、村としてメンデレーボ、オトラダ、マヤク・ロフツォフ、ブローヴァ・ルドニー、スタヴァ・ドクチャエヴァ、ゴロブニノ、ドゥボボエ、ゴリャチエ・クリュチ、ラグンノエが設置された。

 

クナシリ地区民政署長にパブハディヤ大佐を任命

 極東軍管区では島地域を統治する民政局を設立することが決定された。サハリンとクリルで働く、様々な分野の上級職員と専門家のリストが承認された。

 1945年9月17日、ハバロフスク地方の共産党指導部は10人の専門家をサハリンに派遣した。破壊され略奪された南サハリン地区は、以前サハリンで働いていたドミトリー・クリュコフが民政局長に就いた。各地区に2~3人の労働者が割り当てられ、現地で民政署を設立した。レヴォン・パブハディヤ大佐はクナシリ地区の民政署のトップに任命された。

 

 

パブハディヤ民政署長の最初の指示

1946年4月11日 フルカマップ

No.263に対する1946年2月2日のソビエト連邦最高会議幹部会令に基づく

 

  1. クナシリ地区の民政署が設立された。この地域にはクナシリ、シコタン、シボツ、ユリ、タラク、スイショウ、アキユリ及び周辺の島々が含まれる。

 

  1. 地区センターはフルカマップとする。

 

  1. 1946年4月10日をもって、日本の自治は廃止される。

 

  1. この地区に居住するソビエト連邦の市民と日本人は、土地、地下資源、工場、施設、家畜、漁船などと同様にクナシリ民政署の管理下に移される。

 

 民政署の各部門には当時島に住んでいた中尉や大佐など元軍人が含まれていた。彼らは教育や健康、社会福祉、財務部門を率いた。予算と税金の検査官、主任農学者、主任畜産技術者が指名された。

 

1946年、日本語地名の廃止に向けた手続き開始

 ソビエト市民によるクリル諸島の発展における重要なポイントは、1946年に居住地と島々の名称を変更したことだった。日本語とアイヌ語の地名を使用することは非常に不便で面倒だった。最初は、国民経済のさまざまな部門、郵便サービスや日常生活において多くの誤解や混乱があった。南サハリン州のクリュコフ民政局長は、すべての集落、島、湾、川、湖の呼称を変更するという素晴らしい仕事をした。1946年3月、クリュコフ局長のイニシアチブで極東軍事評議会は、サハリンとクリル諸島の都市と地区中心部の名称変更に関する特別令を発布した。

 さらにクリュコフ局長は1946年9月21日の南サハリン州民政局の命令により、名称変更の提案を承認し、これらは学者L.S.ベルクを議長とするソ連地理学会の幹部会で検討された。新しい名前の案は、サハリン州執行委員会とのさらなる検討を経て、1947年10月15日の「サハリン州の集落の改名について」というソビエト連邦最高会議幹部会令の基礎となった。

 

フルカマップはユジノクリリスクに変わった

 国後島の中心の村であるフルカマップ(アイヌ語で「交易、交流の場所」の意)はユジノクリリスクと呼ばれるようになった。また、地域全体を指すクナシリは「南クリル」と呼ばれるようになった。

 クナシリ島は改名後もクナシリ島のままとなった。(アイヌ語で「黒い島」または「ハーブ島」の意)。面積は1550平方キロ、長さ120キロメートルである。

 

秋勇留島はアヌーチナ島

 5㎢の面積でかつてアキユリ島(秋勇留島)は学者のドミトリー・アヌチン(1843-1923)にちなんで「アヌーチナ島」と命名された。彼は驚嘆すべきロシアの学者であり、地理学、人類学、民族学、考古学に精通し、ロシアの湖のシステムを最初に研究し、分類したことで「ロシア水文学(湖沼の研究)の父」と呼ばれる。

 

志発島はゼリョーヌイ島

 ゼリョーヌイ島(志発島)は約60㎢の面積を有する。1739年の第二回カムチャツカ遠征隊から別れたM.シュパンベルグ大尉が率いた分遣隊が発見し、島の外観からそう名付けられた。

 

多楽島はポロンスキー島

 ポロンスキー島(多楽島)は面積18㎢。ロシアの歴史家アレクサンドル・ポランスキーにちなんで名づけられた。

 

水晶島はタンフィリエフ島

 タンフィリエフ島(水晶島)は面積12.92㎢。ロシアの植生地理学者でノボロシースク大学教授のガブリエル・タンフィリエフにちなんで命名された。

 

勇留島はユーリ島

ユーリ島(勇留島)は面積19㎢。ユリはアイヌ語由来だが意味は不明。

 

色丹島はシコタン島 

 シコタン島はアイヌ語で「大きな集落」という意味であり、アイヌはマロクリル湾(斜古丹)に面したエリアを「小さな村」と呼んだ。委員会のメンバーは、島全体をこの村の名前で呼ぶことにした。シコタン島は小クリル列島で最大の島で面積は225㎢。マロクリリスコエとクラボザボツコエの2つの村があり、8km離れている。

 

1947年、南クリル地区議会を開設

 その後、ソビエト連邦最高会議幹部会令及びサハリン地域執行委員会、南クリル地区人民代表評議会の決定に基づいて、1947年10月21日に5つの地方議会が設立された。

南クリル地区議会は1947年6月13日に、南クリル地区人民代表評議会の執行委員会の最初の会議で結成された。

 

日本人とソ連人は5つの島、43の集落に住んだ

 南クリル地区の主要な9つの島のうち5つの島に人々は住んでいた。全部で125の集落があったが、82の集落は戦争が始まってすぐに日本人が出て行ったため、43の集落にしか住んでいない。1945年8月まで島には19.000人が住んでいた。この中には、隣接する北海道から缶詰工場や寒天工場、ヨード工場で働くためにクリルに来た季節労働者も含まれている。

 

ソ連占領から1年後、国後島、色丹、歯舞群島に4,346人の日本人が残っていた

 1946年9月現在、ソビエト連邦の市民1,386人(ロシア人、ウクライナ人、タタール人、ベラルーシ人、ユダヤ人、チュバシ人、モルドバ人)、島を離れることができなかった、または離れたくなかった日本人は4,346人がこの地域に登録されていた。当時はまだ本国への帰還の話はなかった。

 人口が集中していたのはユジノクリリスク(古釜布)だった。この地区センターには662人のソビエト市民と1,017人の日本人が住んでいた。主な産業は漁業と林業。戦前は国後島で硫黄が生産されていた。

 チノミノチ村(乳呑路、後のティアチンスキー村評議会)にはロシア人140人、日本人949人が住んでおり、5つのヨウド工場、2つの製材所、金と銅の鉱山があった。

シコタン村にはロシア人189人、日本人509人が暮らしていた。2つのヨード工場と捕鯨場があった。

 驚くべきことに、小クリル列島の比較的小さな島であるゼリョーヌイ島(志発島)には、520人のロシア人と850人の日本人が住んでいた。戦前の缶詰工場がそのまま生き残り、稼働していた。1946年末まで500グラム入りのカニ缶詰を製造していた。

 集団農場や水産加工場では伐採した木材から角材、板を生産した。地元産の木材から住宅や生産施設や社会施設と同様に漁船が造られた。

 漁業も再建された。色丹島では「オストロブノイ」水産加工場が再建された。国後島では漁業コルホーズ「ロディーナ」「ポぺダ」「サラトフ・ルイバク」が設立された。

 

1946年末時点で、日本人学校が17校、ロシア人学校が7校あった

 この地域には1946年末までに、ロシア人の学校が7校、日本人学校が17校あった。ロシア人の児童・生徒343人、日本人の児童・生徒834人が学んでいた。

 

日ソ共同宣言で引き渡し対象となった色丹島志発島のロシア人は追い出された

 1956年に有名な宣言が出された。当時の国家のリーダーであるN.S.フルシチョフが日本に領土を引き渡す決定をした。シコタン島とタンフィリエ島に住んでいたロシア人は島か追い出された。サハリン州に残る国後島に引っ越した。フルシチョフの近視眼的決定は時限爆弾であることが判明し、隣人同士であるロシアと日本の人々を脅かし続けている。

 色丹島は1955年から4年間、事実上空っぽだった。マロクリリスコエ(斜古丹)村には4家族しか残っていなかった。しかし、1959年、南クリル諸島の海域で集魚灯を使ったサンマ漁が実験的に行われ、大量漁獲の可能性が明らかになった。ある工場ではサンマ缶詰の生産技術が考案された。当時、サンマは色丹島にやってきた。

 

シコタンのルネサンスが始まった

 日米安全保障条約の締結によって、ソビエトと日本の間のすべての予備的合意は完全に取り消された。突然、シコタン島は大規模な漁業、水産加工基地としての可能性が開かれた。

 ソビエト連邦政府のレベルでシコタン島に近代的な水産加工基地を建設することが決定された。シコタンのルネサンスが始まった。

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