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1945年8月21日、占守島の日本軍は札幌の第5方面司令部から敵対行為をやめ武器を置くよう命じられた。同じ日、ソ連軍第2極東軍はスターリンから、占守島の戦闘を2~3日延期する許可をとった。日本軍はソ連がさらなる戦いの準備をしていることを知らず、ソ連軍は日本軍が敵対行為を終わらせる決定をしたことを知らなかった。カムチャツカ防衛区の副司令官ピョートル・アーチュシン大佐が日本軍との交渉のために片岡基地に派遣された。その時から、占守島での日本軍の抵抗はなくなった。8月21日〜22日の夜、日本軍は島の中心にある三好野飛行場に集められ、ソ連軍により武装解除され、それは8月23日まで続いた。一方、極東ソ連軍司令官ヴァシレフスキー元帥は豊原(ユジノサハリンスク)と大泊(コルサコフ)に兵力を集中し、8月22日までに占領するよう命令した。大泊には北海道上陸作戦を組織するため艦船を集結させる必要があった。北海道上陸作戦の準備期限は8月23日とされた。(サハリン・クリル通信2020/8/21)
※サハリン・クリル通信の「50度線からのリポート」(75年前にサハリンとクリル諸島を日本軍国主義者から解放し、第二次大戦を終わらせた一連の戦いを過去の日時と連動させて紹介するプロジェクト)から–。
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