1945年11月30日の北海道新聞に「色丹村長の梅原衛氏は、27日朝根室にひょっこり姿を現した。ソ連軍の許可を得て島の生産物販売の使命を帯びて来た」という記事が出た。
村長は75年前の9月1日朝、斜古丹湾に面した役場前の橋から、ソ連軍上陸を見届けた。3隻の艦船からソ連兵が一気に散開し、無線塔を接収し、郵便局、役場、捕鯨場を占拠。斜古丹湾に赤旗が翻った。
島民の脱出が始まる。見つかれば銃撃、命がない。日本人が出て行けばソ連に永久占領の口実を与える–村長はとどまるよう説いて回った。
軍政布告。島の行く末を思案していた時、漁業経営への協力要請がきた。渡りに船だった。「島では網や船の修理まで根室が頼り。根室との交易を」と一計を案じ、許可を得た。全員の帰島、ソ連船の修理、漁業者を連れ戻すことが条件だった。
根室の警察や道庁を訪問し、先々で取材を受けた。冒頭の記事は「色丹にはソ連軍200人位…」と続く。
国境警備隊が入島し、占領部隊に取って代わった46年3月、村長は逮捕される。渡航許可は占領部隊の独断で、島の状況を語ったことがスパイ行為と追及された。3度逮捕され47年10月に強制労働10年の判決。翌年、ウラジオストクに移送。49年1月の軍法会議で量刑は倍の20年になり、シベリアに送られた。
帰国できたのは日ソ共同宣言発効後の56年12月末。村長は鳩山一郎前総理を訪ね、余生を返還運動にささげると誓い、2年後の千島歯舞諸島居住者連盟立ち上げに参加した。
※北海道新聞「朝の食卓」2020年9月1日掲載(出稿時の原稿を使用)
【ソ連軍の動き】
9月1日09:00(カムチャツカ時間、日本より2時間早い)
ヴォストリコフ海軍少佐の部隊が色丹島斜古丹湾に到着。桟橋に横付けし、部隊を揚陸。日本軍の軍使が降伏の意志を表示(土井定七少将指揮の第4歩兵旅団と野砲大隊4,800人)
9月1日11:40
ヴォストリコフ海軍少佐の部隊が色丹島上陸完了
(スラヴィンスキー著「千島占領1945年夏」より)
『ソ連船3隻 色丹村斜古丹港に入港す旨 通報ありたり 7時上陸開始 兵数不明 港湾施設及道路破壊しつつあり』
『ソ連軍は9月1日 輸送船(千噸(とん)級)一隻 駆潜艇一隻にて入港 兵一ケ大隊約600名 斜古丹に上陸 暁部隊 郵便局 憲兵隊 陸軍病院 役場 漁業会等を占領せり』
色丹上陸作戦に参加したソ連海軍中尉の回想
1945年9月1日の色丹島上陸作戦に参加したソ連軍の機雷敷設艦「ギジガ」に乗船していた海軍中尉イーゴリ・スミルノフ氏は著書「中尉の航海」の中で、当時の様子を記している。
—「ギジガ」には430名の兵士のほか馬59頭、3tトラック2両、弾薬・食糧5トンを積載していた。2隻の掃海艇には各200名の兵士が乗船していた。上陸部隊は8月30日未明に樺太・大泊を出航したが、我々は色丹島のまともな地図を持っていなかった。9月1日午前5時に色丹島沖に到着した。切り立った断崖の上に日本兵が見えた。彼らがどのような対応をとるのか全く分からず、緊張した時間が続いた。上官からは戦闘の準備をして、こちらから先に撃たないように命じられていた。沖合まで来たものの、地図がないのでどこへ向かえばよいのか分からなかった。すると突然、日本の機帆船が島の影から飛び出してきた。すぐさま掃海艇T-594が追跡し拘束した。機帆船が飛び出してきた場所へ向かうと、木製の桟橋がある、小さいけれど快適な湾を発見した。日本兵は丘の上から我々の船を見ていた。彼らは撃ってこなかった。
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