択捉島で発見された観音像 流感で死んだ島民の冥福を祈って建立した三十三観音像の1つか? 建立したのは高橋暁道さん(元護国寺住職=別海)

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 今年7月、択捉島の留別で見つかった観音像について、新たな情報が寄せられた。観音像の願主は、戦前留別にあった曹洞宗・法蔵寺住職の故高橋暁道さんで、大正から昭和にかけて悪性の流感で村人が多数死んだことから、犠牲者の冥福を祈って建立した三十三観音像のうちの1つである可能性が高いことが分かった。暁道住職も、この時の流感で2人子供を亡くしている。

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 引き揚げ後、暁道住職が別海町護国寺の住職を務めていたことから、この観音像のことを気に留めていた釧路新聞の山本記者から興味深い情報提供を受けた。昭和52年(1977年) 8月14日(日曜日)の読売新聞に、当時95歳の暁道住職が取り上げられていた。「ぶらり紀行 さいはての羅漢さん 択捉島に帰れる日はいつ」と見出しがついていた。

 記事の中で、暁道住職が語ったところによると、当時村には医者が一人で、流感によって死者が続出。自身も6歳の子供とその下の子を相次いで亡くした。三十三観音像は、犠牲者の冥福を祈って思い立ったもので、函館の石屋に依頼して造らせた石像をドサンコ(道産馬)の背に乗せて島内の33か所に建てた。馬も登れない急な山道は自ら背負って登り、その姿を目の当たりにした島の人たちは「弘法大師の再来」と感謝したという。

 1945年8月28日、ソ連軍が留別に上陸した後、観音像はソ連兵の射撃の的にされて破壊された。「耐えられなかったのは、魂をこめて建てた三十三体の観音像が、ソ連兵の射撃の的にされたこと。一つ残らず無残な姿に変わった」と記事は伝えている。

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 択捉島で見つかった観音像の裏には「昭和八年七月十八(?)日」の日付があった。流感がはやったのが「大正から昭和にかけて」であり、33体の石像を函館の石屋に造らせ、択捉島まで運び、さらに島内33か所に据えて歩くとなると相応の時間が必要だろう。ソ連による占領後、射撃の的にされて「一つ残らず無残な姿に変わった」と記事にはあるが、行動が制限される占領下で、33体すべて破壊されたことを確認できる状況でもなかったはずだ。とすれば、見つかった観音像は三十三観音像の1つである可能性は十分にある。

 読売新聞が取材した当時、唯一の島への渡航機会だった北方墓参は中断していた。ソ連側が旅券の携行とビザの取得を要求してきたためだった。再開されたのは昭和61年(1986年)である。島民名簿の記載によると、暁道住職は新聞記事が掲載された翌年の昭和53年(1978年)3月に亡くなっている。後を追うように妻のヒナさんも昭和54年に死去している。

 読売新聞の「ぶらり紀行 さいはての羅漢さん 択捉島に帰れる日はいつ」という記事、とてもいい記事なので、改めて紹介させていただく。

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【読売新聞 昭和52年(1977年) 8月14日(日曜日)7版(22)】

ぶらり紀行 

さいはての羅漢さん 択捉島に帰れる日はいつ

  「何とかしてもう一度、元気なうちに択捉(えとろふ)へ墓参に行かせたい」。<羅漢(らかん)さん>を知る人たちは、みんな言う–。それほど羅漢さんの強い「望郷」の念が、周囲の人に知られているのだ。といっても、生まれ故郷ではない。七十年前の明治四十年、二十五歳で、仏教を広める新天地を求めて択捉島へ渡り、終戦で追われた。そして、ここ北海道は別海町護国寺住職に。髙橋暁道さん。もう九十五歳。

 終戦時、約百五十戸の檀家の位はいや遺骨を、ソ連軍の手から守るため、島の山中に埋めた。なかに自分の三人の子供の遺骨もある。そのまま三十二年。「あの人たちの霊を弔いたい」というのが、長い間の悲願。が、終戦三十三回忌ともいえる今年も、北方領土墓参がソ連側から拒否され、その願いもむなしくなった。

 択捉島–国後(くなしり)、色丹(しこたん)、歯舞(はぼまい)諸島とともに、日本固有の北方領土。太平洋戦争の口火となった真珠湾攻撃の際、連合艦隊出撃基地となった単冠(ひとかっぷ)湾があるので知られているが、海の幸や鉱物資源に富み、沖縄本島の二倍以上の広さを持つ、北方領土最大の島である。

開拓民 

 羅漢さんは、山形県鶴岡市生まれ。行商の三男。六歳の時に近くの禅寺に入り、以来、東北から北海道にかけて修行に歩き、明治四十年初秋、択捉島へ渡った。そのころの仏教界は、アメリカ新大陸はピューリタンによって開かれたのだということに刺激されたのか、新しい実践の場を開拓途上の北海道や未開の北方領土に求める風潮が強かった。

 何せ当時は、人間より凶暴なヒグマの方が多かった時代。僧である前に、まず強い開拓民でなければならなかった。最初に覚えたのが馬の乗り方、魚や野菜の保存法。

 それでも二年後に、オホーツク海に面した中部の留別(るべつ)村に、島では初めての法蔵寺を建てた。根室に残していた妻ヒナさん(九三)を呼び寄せ、以後、本格的に布教を始めた。

 島民の信頼を不動のものにしたのが道路建設三十三観音像の建立。説教所を太平洋側の入里節(いりりぶし)に置いたが、法蔵寺からは約十キロの山越え。ヒグマや雪崩の犠牲者が絶えない山。一念発起の羅漢さん、クワとカマでとうとう道をつくった。三年もかかった。

 大正から昭和にかけて、悪性の流感が広がった。島には医師がたったの一人。死者が続出した。羅漢さんは、島で十人の子宝に恵まれたが、このとき、六歳の子をなくし、次の子が六歳になったとき、また奪われた。

三十三観音

 こうした犠牲者のめい福を祈って思いたったのが、三十三観音像の建立。函館の石屋に頼んでつくらせた石像を、ドサンコ(道産馬)に乗せて島内三十三か所に建てた。馬も登れない険しい山道は、背負って登った。その姿を見て、島の人たちは「弘法大師の再来」とも言った。

 が、終戦はすべてを破壊した。

 ソ連軍の手で、人々は樺太(サハリン)へ移され、二十三年に北海道へ。羅漢さんも例外ではなかった。

 それは仕方なかったとしても、耐えられなかったのは、魂をこめて建てた三十三体の観音像が、ソ連兵の射撃の的にされたこと。一つ残らず無残な姿に変わった。

 兵士たちはさらに、位はいを、何と勘違いしたのか、持ち去り始めた。驚いた羅漢さんは檀家に呼びかけて位はいや遺骨を集め、夜間外出禁止令の出ているなか、危険を冒して、暗夜、寺の裏山に埋めた。なかには、流感で亡くした二児と二十歳近くなって病死した一子、三人の子供の分もあった。

 やっと持ち出したのは、こうりの底に隠した本尊のお釈迦さまだけ。檀家から寄進された五十センチ足らずの木彫りの座像だが、今となっては、当時をしのぶ唯一のもの。今、護国寺の本尊の横にあり、羅漢さんのよき「話し相手」となっている。

 羅漢さんが別海に腰を据えたのは、目の前に北方領土が見えるから。住みついてすぐ、択捉での熱心な布教ぶりが伝えられ、「偉い羅漢さんだそうだ」と話題となった。それが羅漢さんの呼び名の由来。

 寄る年波で、ここ数年前から耳もまったく聞こえなくなった。だが、話す方は不自由ない。

 「島にはアイヌ人が多かった。帰依する人も多くのう。もっとも、本当は、ばあさんがこさえる甘酒が目当てじゃ」

 ヒナさんに時折、「もう一度、島へ行ってみたい。ソ連に取られてくやしい。もう年だし…」ともらすという。

 地平線まで緑のじゅうたんを敷き詰めたわが国最大の酪農郷・別海。満天の星が輝きを失い、東の空が白む午前三時。もう羅漢さんの読経の声が、澄み切った大気に流れる。続いて、手をのばせば届くような国後島との間の、せまい根室海峡に、エビ漁に出る打瀬舟(うたせぶね)のエンジンの音。

 択捉時代の檀家で、近くにいる唯一の人、尾岱沼(おだいとう)郵便局の元局員篠原浩民さん(五九)が、時折やってくる。

 そして、「じっちゃ、夏カゼはやっとるんで気いつけんと。島に行ける日まで元気でいんさい。じっちゃんは護国寺の宝じゃけん」と、老僧を元気づける。(大隈昭二記者) 

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