68年前の今日 巨大津波でパラムシル島民2,336人が犠牲に プラウダは1行も報じなかった

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 ちょうど68年前の11月5日、早朝。巨大な津波が次々とパラムシル島セベロクリリスクを襲い、街全体を飲み込んだ。ソ連では、数時間のうちに2,300人以上が亡くなったことを知っている人はほとんどいなかった。長い間、津波被害の情報は「秘密」のベールの下に隠され続けてきた。その日、何が起きたのか–サハリン・クリル通信は生存者の記憶や犠牲者の遺族の話から再現した。(サハリン・クリル通信2020/11/5「セベロクリリスクの死」より)

 朝4時。クリル諸島北部で強い地震が発生した。激しい揺れは30分続いた。セベロクリリスクと近隣の島々の集落では建物が倒壊した。パニックに陥った人々は外に飛び出し、道路に幅5㎝から20㎝の亀裂が入っていることに気づいた。そして、不気味な静寂があった。次に何が起こるのか。予見でき人はほとんどいなかった。北クリル地区警察のデリャビン署長は言う。「振り返ると、海から島をめがけて押し寄せる高い水の壁が見えた。行政府まで150m。その手前、海から50mのしころに留置所があった。彼らが最初の犠牲者だった。私は拳銃を抜いて空に向けて発砲し、津波が来るぞ、と叫んだ。避難する人々はほとんどが下着姿で裸足のまま、丘を目指していた」–。

 「11月5日の夜は暴風雨警報が出ていた。私たちの船は地震の後、最初に海に出た」とクリル在住のパベル・スモーリンは言った。「私たちの船は第二クリル海峡を通過していた時、高さ数mの最初の津波に遭遇した。船首甲板にいた私は、船が深い穴に落ちてしまったように感じた。次の瞬間、空中高く投げ出された。数分後、2番目の津波が来た」–。

 10分から15分後、最初の津波が引き始めた。丘に避難した人々は家族を捜すために家に戻っていった。その後、さらに大きな第2の津波が襲ってきた。それは15mから20mの高さで、街全体を破壊した。ほとんどの人は高台に避難する時間がなく、犠牲になった。

 20分から30分間、水が建物を破壊する不気味な音がした。家はマッチ箱のように転がり、海に運ばれてしまった。パラムシル島(幌筵島)とシュムシュ島(占守島)を隔てる海峡は家や屋根が浮かび、その他の残骸で完全に満たされた。

 第2波が引くと、すぐに第3波が来て、市内に残っていた建物はすべて流されてしまった。生存者たちはパニックになって何も持たずに、山に駆け上った。

 津波が引いた後、ペトロパブロフスク・カムチャツキーから数機の偵察機がセベロクリリスク上空に現れ、被害状況を写真に収めた。生き残った人々のために飛行機から防寒具、テント、食料を落とした。丘は着の身着のままで逃げて来た住民でいっぱいだった。彼らは焚火を囲んで暖をとった。北クリル漁業トラストのボートが外洋に流された人々を救助するため海峡に入っていった。生き残った人は屋根やがれきにつかまって漂っていた。

 地震の原因は太平洋プレートの沈み込みによるものだった。パラムシル島の東約200kmの深さ7,000m~8,000mの海底で急激な上昇があり、巨大な海水の塊がクリル諸島の島々を呑み込んだ。

 正確に何人が死亡したのかは不明だ。多くの資料によると、クリル諸島北部で2,336人が死亡したとされている。生存者の多くはサハリンに送られ、中にはカムチャツカとウラジオストクに連れて行かれた人もいる。人々は石炭船運搬船やサケを積んだ漁船で輸送された。生き残った人々の恐怖を推測することは簡単なことではない。そして、彼らの将来を創造することもまた同じだ。1952年の秋、全国のソ連の人々は普通に生活を送っていた。ソ連のマスコミ–プラウダやイズべスチヤは、この津波のことも、亡くなった人々のことも、ただの一行も記事にしていない。

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この写真の出典について「サハリン・クリル通信」は State Historical Archives of the Sakhalin Regionとしていますが、真偽について確かめたわけではありません。

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