スヴェズダTVのジャーナリストであるアンドレイ・ルコヴォイと映画制作者が、日本の侵略者からサハリン北部を解放しの極秘作戦を明らかにした。物語の主人公は、サンボの創設者の1人で柔道家であり、諜報員でもあったワシリー・オシチェプコフだ。https://youtu.be/HECYvpVl2YU?t=15
侵略者・日本のサハリン
1920年4月、帝国主義日本軍がサハリン北部に侵攻した。天然資源が豊富なサハリンは、日本にとって長いこと、戦略的に重要だった。村や通りは日本語に改名され、郵便や電信は日本人だけが使用した。木材、水、石炭の代金は日本円で支払う必要があった。彼らは、野蛮な方法で大量の毛皮を持ち出した。農民と労働者はロシア人から中国人、韓国人にとって代わられた。石炭会社は886人を雇用していたが、ロシア人は53人だけだった。酷い差別の中で、日本人の呼びかけに、ロシア人が応じなかった場合、日本人は問答無用で銃撃することが許された。
1923年の秋。ワシリー・オシチェプコフというロシア人の映写技師が、サハリン北部のアレクサンドロフスクに現れた。彼のコードネームは「モンク(僧)」だった。日本が占領したサハリン北部の首都では、日本軍の唯一の楽しみは映画だった。誰もが映画の上映作品とスケジュールを知っており、ホールは満員だった。
ナイフの刃の上を歩く
制作者は言う。「彼は、特別に重要な国家的任務を単独で実行した唯一の諜報員だった。文字通り、刃物の刃の上を渡るように、失敗は許されなかった」–。ある時、危機一髪の瞬間があった。「ロイドの要心無用(1923年のアメリカのコメディ映画)」を上映していた時だ。日本の軍人たちがオシチェプコフを取り囲み、映画の本質やヨーロッパの価値観について問い詰めていた。すると、扉が突然開かれ、酔っぱらったロシア人の船員が入ってきた。映写技師に対して本土からの秘密指令をわめきたてた。館内は静寂に包まれ、日本兵たちは船乗りを見て、それから一斉にオシプチェプコフに目をやった。彼は、とっさに酔っ払いの船乗りの手を握り、軍人たちに向かって「やっと、ワールドシネマの上映スケジュールに関する秘密のメッセージが届いた」–。この一件の後、本土からの指示を口頭で受けることを拒否し、酔っぱらいを使者にしないよう司令部に釘を刺した。
英雄について誰も知らない
オシチェプコフは敵である日本の言葉に精通していた。彼は、日常的に日本兵に囲まれて生活している状況を逆手にとって軍事情報を集めた。日本軍指導部の信頼を勝ち取り、広範で正確かつ詳細な情報をサハリンから送った。彼から送られてくる情報をもとに、若い外交官ヴァシリー・アボルティンが率いるロシア代表団が、日本側と交渉するためサハリンに上陸した。そして1925年5月、日本軍はサハリン北部から出ていくことに同意した。日の丸が降ろされ、日本兵たちが輸送船に乗せられた。この時、オシチェプコフは故郷を遠く離れ、東京にいた。そこで彼は、新たな情報提供者を獲得して、満州の日本軍が新しい化学兵器を準備しているという情報を入手した。731部隊の情報入手を最後に、彼の諜報員としての活動は終わった。
モスクワに移り住んだオシチェプコフは、独自の白兵戦における戦術を開発し、それはいまだに兵士の訓練のために使用されている。彼は、諜報員に戻ることは考えていなかったし、彼の家族にも自分の過去を話さなかった。私たちの時代の歴史家はオシチェプコフをして「チタニウム」と呼んでいる。なぜなら、1人の人間が集団ではできないことを成し遂げたからだ。(サハリン・クリル通信2021/1/27)
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