1945年(昭和20年)の終戦後、旧ソ連が実効支配する北方領土に自ら渡った日本人がいる。根室市の大畑繁雄さん(94)。45年11月に歯舞群島の志発(しぼつ)島に渡り、強制送還までの2年近く代用教員を務めた。島を離れて70年余、心を通わせた教え子の故郷はいまだ戻らず「国の責任は重い」と語る。2月7日は「北方領土の日」―。(北海道新聞2021/2/6)
大畑さんは旧根室町出身。兵役を終えて45年9月に帰郷した。根室は7月に空襲を受け、まだ焼け野原だった。志発島でコンブを使って火薬の原料を作るヨードカリ工場を営んでいた父の繁吉さんに島に来るよう勧められた。父は、村役場から「島から誰もいなくなったら完全にソ連に占拠される。残ってくれ」と頼まれていたという。
大畑さんは「元軍人だからソ連軍に捕まる」と拒んだが、「逃げればいい」と父に説得され、11月にエンジンの付いた船で渡航。占領後に島に渡った日本人は珍しいが、上陸時に見つかることはなく、島を巡回するソ連兵からとがめられることもなかった。「気にしなくても大丈夫かも」。安堵(あんど)しかけた数日後、突然ソ連軍が島中の船を没収。島から出る道は閉ざされた。
商業学校を出た大畑さんは島民に頼まれ、46年1月ごろ、休校状態だった旧志発西前小学校を1人で再開。根室にいつ戻れるか分からず、自身も「地域の役に立とう」と心を決めた。
教えたのは小学1年から中学2年までの50人余り。前任の教員が終戦前に天井裏に隠した国語や算数の教科書を使った。ソ連軍に没収されたオルガンを頼んで返してもらい、弾き方を独力で学び音楽も教えた。児童の伸びた髪の毛を切るなど家族のように接した。「普通の学校生活を送ってほしい」という一心だった。
ソ連軍の兵士に、戦闘機や兵隊の挿絵が載った教科書が見つかり、拳銃を突きつけられて尋問されたことも。「外国の軍人に見張られながらの生活は、子どもたちにとっても異様だったと思う」と振り返る。
47年の強制送還後、根室管内に戻った。漁師や豆腐店勤務を経て、根室信金(現大地みらい信金)に入り、94年までの5年余り、理事長を務めた。
教え子の一人で根室市在住の木村芳勝さん(86)は大畑さんのことをよく覚えている。「優しくて、怒られたこともなかった。家にいても家の手伝いしかやることがなく、学校は安らぎの場でした」と振り返る。
ソ連占領下の志発島しか知らない大畑さんにとっても島は故郷と同じだ。「島の生活を奪ったのは、突き詰めれば戦争を始めた日本の政策の誤り。国が責任を持って解決しなければならない」と力を込めた。」(武藤里美)
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