千島列島–クリリスコエ・アジリエーリィ (クリルの首飾り)

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 クリル諸島に関する数ある書籍の中で、ユーリ・エフレモフ(1913–1999)による「クリル・ネックレス」は2つの点で際立っている。まず、この本がソビエトが解放したクリル諸島を詳細に紹介した最初の本だということがある。第二にエフレモフは軍事地理学のリーダーとして、サハリン南部とクリル諸島の「地名」を日本語からロシア語に変更する作業を調整したことだ。この本には、最も興味深い「地名」変更について書かれている。(サハリン・インフォ2021/2/17)

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 「クリル・ネックレス」は1951年出版され、根強い人気があり、その後2度再販されている。1962年に出た改訂版は内容が更新、修正、補足されている。

 例えば、北クリルのパラムシル島で発生した大災害(※大地震と大津波)に関する情報は、当時は何らかの理由で極秘事項に分類された。一般の人にとって大災害は全く起こらなかったのだ。地震発生の直前、エフレモフの提案で、若い芸術家セラフィム・フロロフがモスクワ大学からクリル諸島に派遣され、島々の風景を描いた。すべての制作が終わって、彼は捕鯨船に乗っり込み、パラムシル島を出港した。大地震と大津波が襲う9時間前のことだった。大惨事が起こったため、捕鯨船は救助にあたった。彼らは海面を埋め尽くす屋根や木材を取り除き、海岸に上陸して生存者の応急処置を行った。こうした出来事は25,000部印刷された1962年の改訂版の中に、詳細に書かれている。

北方四島の地名変更を主導  日本語からロシア語表記へ

 1945年、解放された領土(サハリン南部とクリル諸島)にある集落と湾や川、山など地理的特徴の名前を変更することが決定された。そのことは、それらの領土がソビエトに完全に編入されたことを意味する。

 当時、サハリン南部とクリル諸島には、多くの科学者による調査研究のための遠征が行われた。島々の開発のためのアイディアや方法を出来るだけ早く理解する必要があったためだ。その中に「新しい地名」という任務も含まれていた。このプロセスを調整するために派遣されたのがエフレモフだった。

 「夕方遅く、私は解放された地域におけるソビエト政府の最高代表である民政局の局長と会うことになっていた。何十万人もの日本人がまだ祖国に戻ることが出来ず、解放された領土にとどまっていた。多くの予期せぬ出来事、誰も体験したことがない出来事を調整し、解決するのが彼の仕事だった」–エフレモフはドミトリー・クリュコフ民政局長との最初の出会いについて書いている。

 「我々にとって発音が難しい日本の地名は、ふさわしくない」–クリュコフは同意した。「とまりきし(旧泊岸、現ヴァフルシェフ)」や「大木植民地(マリノフスカ)」といった日本の地名を発音するのは極めて困難だった。ロシア語と日本語の音声学の違いにより、スペルにも問題があった。コルサコフは「おとまり」と呼ばれたが、より正確には「おおとまり(大泊)」である。もちろん、地名の問題は政治的なもので、すべての当局がその解決に関与した。

 サハリン南部だけで約5万の地名があった。その地名のほとんどは民家が1ダースまたは2ダースしかない集落だった。たとえば炭鉱エリアは神本、中本、島本、西本などがあったが、これらは合併され1つになった。

 各村は地名の変更作業に参加した。しかし、思ったほど簡単ではなかった。村だけでなく、すべての山、川、湖、峠もある。全部で約5,000個の対象物があったのだ。可能な限り、住民の積極的な参加を得て選考が行われた。会議の議事録をみると、こんな具合だ。

「自分の集落をロシア語で呼ばれたいか?」

「もちろんだ。今のままではあんたも発音することはできない」

「それならば、提案してほしい」

沈黙が流れる。漁師は腕組みをして、医師は眉をひそめた。水産加工場の場長はタバコの煙を吐きながら、言った。

「何かうまいものでも食わないと、いい案なんか出てこない」–。

「法律で地名が決定したらみんなでお祝いしよう。結局のところ、村の名前はただ付ければいいというものではない。これは法的な問題であり、法律によって承認される必要がある。我々は、移住してきた住民に代わって名前の案を提案するだけだ。口にして気持ちの良い名前をつけよう。あなたの村が隣の村と比べてどう違うのか考えてほしい。悪い? それと良い?」

「いいよ、良いに決まっている。優しい、親切だ」

「村の名前は『親切』としてはどうか」と漁師の一人が提案した。

私は反対しなければならなかった。島にはすでにそんな名前があったからだ。

そして振り出しに戻って、また考え始める。

「う~ん、いい言葉はもう残っていないようだ。素敵な村なんだがな~」

「それ、いいんでないか」と、別の漁師が叫んだ。

誰もが、すぐに同意した。

 クリル諸島の観光の可能性を指摘

 エフレモフは船で出来るだけ多く島を訪れようとした。クリル諸島の千島笹とハイマツの道を歩くことがどいうものかを最初に説明した人でもある。また、本には、最初にクリル諸島に移住した人々の暮らしについての鮮やかなスケッチがたくさん収められている。これらは今でも興味深いものだ。

 エフレモフはクリル諸島の、もう一つの重要な事柄を指摘している。観光の可能性についてである。「クリル諸島には貴重な宝、つまり自然の美しさがある。コーカサスやクリミアの人気のある観光地の魅力とは異なり、ここの美しさは息をのむほどだ」–。

 クリル諸島でエフレモフは偉大な自然の美しさに魅せられた。偶然出会った名前のない湖について彼は書いている。「未知の奇跡は何について沈黙を守っているのか。混雑した観光地ならホテルやボートステーションがすぐに出来るだろう。その名声はきっとリッツに匹敵する。この湖を見た人はきっと思い出すはずだ。他に類を見ない美しい自然に出会った幸福を–。

 エフレモフは戦前から自然について造詣が深かった。有名なクラスナヤポリャナで観光を企画し、コーカサス自然保護区ではガイドとして働いた。そして戦後、彼は定期的にモスクワの学生を連れて行った。観光の発展のためだが、その功績により、エフレモフの名前がガグラ山脈の山頂の1つ(3,114m)に付けられた。

 クリュコフはこう語っている。

「地名のリスト作成は組織的全体で取り組んだ。作業すべて1947年初めまでに完了し、エフレモフと共にモスクワに送られた。承認に向けてプロセスを通過し、地理学者の連合会議で検討された。そして1947年10月15日付のソビエト連邦最高会議議長令によって変更が行われた。

 エフレモフはモスクワ大学地理博物館の創設者で「Nature of my country」の著者であり、400もの論文の著者でもある。彼は学位を持っていなかった。そして5つの詩集を出版している。

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