色丹島で生まれれた最初のロシア人ヴィチャ・オディンツォフ(1946年6月12日イワン・クワチ撮影)
「色丹島最初の移住者」(1946年6月12日、イワン・クワチ撮影)
※写真集「千の島を巡るクリル探検1946年」より
ヴァルフォロメエフ家は国後島に移住した最初の家族だった。1946年4月7日付のソ連政府の法令により、農業1,000家族と漁業3,000家族の合わせて4,000家族を南サハリンと南クリル諸島(北方四島)に移住させる計画が承認された。(kurilnews.ru 2021/3/16)
1946年、4,000家族を南サハリンと北方四島に移住させる計画が承認された
政府はベラルーシやウクライナ、シベリアだけでなく、移民を確保するためにカルーガ、コストロマ、クルスク、オリョール、ベンザ、リャザン地区の指導者に移民の割当を命じた。厳しい時代だった。希望者だけがサハリンとクリル諸島に行ったわけではない。政府の命令に従わなかった場合、重大な犯罪とみなされることから、各地区の指導者は上から命じられるまま割当を確保した。移民は荷造りのために何日かの猶予期間を与えられ、貨車で2カ月かけてウラジオストクに移動し、汽船に乗ってサハリンに着いた。
税金免除、支度金3,000ルーブル、住宅も提供、それまでの借金も帳消し
ソ連政府はあらゆる方法を用いて、極東地域で働くよう市民を勧誘しようとした。サハリン地域で働く人には税金と社会保険の支払いを免除しただけでなく、支度金として3,000ルーブルを支給した。移住者には住宅が提供され、それまで抱えていた借金も帳消しにするなど様々な優遇措置を打ち出した。
国後島移住第一号、ヴァルフォロメエフ一家
最近、国後島の有名人ビクトル・アナトリエビッチ・ヴァルフォロメエフの60歳の誕生日を家族が祝った。彼の父アナトリー・ミハイロヴィッチ・ヴァルフォロメエフはウクライナ、母ベラ・ヤコブレナ・パブロワはスーズダリ出身で、2人とも1946年に最初の移住者として国後島に到着した人だった。国後島で2人は結婚し、1年後に長女アラが生まれ、その後の5年間で5人の子供が誕生した。当時のソ連の家族はみなんそうだった。両親は1日12時間働き、その間、年上の子供たちが弟や妹の世話をするのが当たり前だった。
東沸のレンガ工場で日本人と一緒に働いた
ヴァルフォロメエフ一家が最初に入植したのはセルノヴォツク(東沸)だった。父親は、当時まだ国後島に残っていた日本人と一緒にレンガ工場で働いた。「当時のセルノヴォツクは大きな集落だった」と長女のアラは言った。「その後、父はゴロブニノ(泊)村のアレキーノ(古丹消)に送られ、弟のパべルとコンスタンチン、妹のオルガとヴァレンチナがそこで生まれた。二段ベッド、小さなテーブルとランプを覚えている。その後、私たちは普通のアパートに移り住んだ。私たちは牛、馬、鶏を飼っていた。母はパンも手に入ったし、良い仕事もあったことを幸せに感じていた。本土の小さな村や集団農場に残った親戚に比べると、恵まれていたからだ。親戚から届く手紙から判断すると、本土での仕事は大変でみな疲れ果てていた。集団農場で働く人々は身分証明書を持っておらず、権利をはく奪されていた。だから、多くの人が新天地の極東を目指した。そのような家族はたくさんいた」と続けた。
1946年末までに、ソ連本土から国後・色丹・歯舞群島に2,000人が移住した
1946年の終わりには、南クリル地区(国後島、色丹島、歯舞群島)にはソ連各地から2,000人の移住者が到着していた。アナたち家族は、移住してきた大家族のペシェホノフ一家、サフォノフ一家、ピャンコフ一家、ビリュコフ一家と一緒に助け合って暮らした。
「色丹島が復興し始めた」とアナは続けた。「1960年、父は大工の一人として色丹島のクラボザボツコエ(穴澗)に送られた」–。そこで、サハリン・リボプロムの缶詰工場を建設した。子供5人を含めて家族全員が色丹島に渡った。子供たちは4年生まではクラボザボツコエの初等科で学び、5-10年になると隣村のマロクリリスコエ(斜古丹)の学校に移り、寄宿舎から通った。アラはその後、ハバロフスクの通信技術学校を卒業し、南クリル通信センターで46年間働き続けた。妹のオルガとヴァレンチナは専門学校を卒業し、国後島のクナシル貿易企業に勤務した。「そして今、私たちは余生を過ごしている」–。
ユジノサハリンスクで暮らす末っ子のビクトル家族
1961年、色丹島でヴァルフォロメエフ一家にもう一人の家族ビクトルが生まれた。彼は島の仲間と同じようにトラクターの運転を学び、軍隊に入った。彼は国後島の南クリル・水道住宅共同サービスで今も働き続けている。1994年に発生した大地震の時、恐怖とパニックか広がる中で、ビクトルはユジノクリリスク(古釜布)へ飲料水を供給し続けた。10代のころには、火事になった住宅から大祖国戦争経験者を救い出したこともある。1983年にチャチャ火山でヘリコプターが墜落した時にも救助活動に加わった。2012年には弟のアレクサンドルと一緒に、ゴムボートで外洋に流された2人組を救助した。ビクトルはユジノクリリスク住民の間で知られた存在だ。彼は国後島で伴侶のリュドミラと共に2人の息子を育てた。
1950年代初めの国後島、色丹島、志発島では年間450人の子供が生まれた
南クリル地区で出生率が最も高かった時代は1952年から1954年だった。国後島と色丹島と小クリル列島のゼリョーヌイ島(志発島)の集落では年間320人~450人の子供が生まれた。1950年には15の学校で1,392人の児童・生徒が勉強していた。そのうち小学生は858人である。
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