色丹島移住50年 彼は最年少26歳で缶詰工場の工場長を務めた

 南クリル地区は2021年6月5日に創立75周年を迎える。これまで何千人もの市民が国後島色丹島で働き、奉仕した。本土に移住して余生を過ごす人々がいれば、島に住み続ける人々もいる。今日、南クリル地区の人口は1万1,860人。その中に、アナトリー・ズバキンがいる。彼は最近、南クリル地区の名誉市民の称号を贈られた。(kurilnews.ru2021/4/30)

 ズバキンはオムスクで1953年に生まれた。ペトロパブロフスク・カムチャツキーの水産学校を卒業した後、ソ連の多くの市民と同様に、「2~3年だけ」という軽い気持ちで色丹島にやってきた。そして、この島に恋をして、ずっと住み続けている。彼は島の第17缶詰工場の管理者として働いた。3年後に上級エンジニアに昇格し、1979年には第17缶詰工場の工場長に任命された。わずか26歳の時だった。1977年、漁業の大規模な再編が行われた。色丹島にはクラボザボツコエ(穴澗)とマロクリリスコエ(斜古丹)にそれぞれ缶詰工場があったが、1つに統合された。それがオストロブノイ缶詰工場であり、ズバキンは第1副工場長に任命された。1970年代、工場の生産量は年間6,000万缶に達し、国内だけでなく海外へも輸出された。毎年、漁期になると、国内各地から2,500人の労働者と、大学生1,000人が色丹島に到着し、工場の労働だけでなく、島の社会施設の建設にも取り組んだ。ズバキンは優秀なアスリートでもあった。バレーボールの南クリル地区の代表として頻繁にサハリンに旅した。またギターの名手であり、文化会館のフェスティバルに参加していた。そして、2011年に引退した。1994年10月に発生したシコタン地震の後、島の復旧復興に取り組み、素晴らしい仕事をしたことで、他の20人の住民とともに祖国貢献賞を受けている。

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