サハリン郷土博物館75周年 建物は日本時代の樺太庁博物館

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 サハリン州郷土博物館が創立75周年を迎えた。1946年5月11日、ユジノサハリンスク地域民政局のクリューコフ局長の命令によって開設された。(開設日を4月28日とする歴史家もいる)建物は日本が建てた旧樺太庁博物館を1945年11月に国有化し、そのまま使用した。入場料は大人2ルーブル、子供1ルーブル、軍人は無料だった。(サハリン・クリル通信2021/5/11ほか)

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 開設時の館長は当時41歳のセルゲイ・クラフチェンコで、他に科学担当の副館長と2人の研究者がいた。ソ連の専門家と一緒に、日本人最後の館長を務めた山本利雄を含む日本人スタッフも働き続けた。1946年5月までに、スタッフは自然、民族、考古学の展示部門を再編し、標示と説明文を日本語からロシア語に翻訳する作業に取り組んだ。日本の展示物の中で、利用可能なものはイデオロギーと科学的観点から適正な処理が行われ公開された。博物館の敷地には大砲が展示されていた。日露戦争の時に、ポートアーサー(旅順)を守った大砲も含まれていた。

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 1946年6月8日、「ユジノサハリンスク地方伝承博物館の再建について」という法令が発布され、ソビエトの博物館の概念に従って新しい展示部門を制作するよう指示が出た。それは、ロシア人による南サハリンの開発、日本の侵略との闘い、赤軍による島の解放の歴史、社会主義によるサハリンの発展を紹介する部門だった。2年で完成し、スタッフはロシア語と日本語でガイドブックを作成した。その後、博物館は正式に州立ユジノサハリンスク博物館となり、モスクワから運営資金が提供されることになっていた。スタッフは総勢40名となった。当時の計画では、国後島ユジノクリリスク(古釜布)やポロナイスクに分館を開設することになっていたが、それは実現しなかった。

 「日本人の文化と生活」に関するコレクションが民族研究所に移管された時、樺太庁の印章やアイヌ儀礼用具(イクニシ)などが誤って紛れ込み、取り返しがつかないほど消えてしまった。1952年5月には上級検閲官が、日本時代の樺太の写真や地図など大規模なコレクションを国のアーカイブに移した際、それらはすべて「不要」のリストに分類されていた。同様に、日本人によるアイヌの搾取を描いた絵画、撤去された国境標識などは破壊されてしまった。

 1949年11月、クラフチェンコ館長が辞任すると、激動の時代が始まる。その2カ月前の9月。文化教育機関の検査官が来館し、博物館の問題点として、アイヌの人々に多くの注意が払われていることだと指摘した。それは当時の当局の考え方であり、アイヌは日本人と完全に同化して、独自の文化と精神はオリジナリティを失った、アイヌは事実上消えた人々であるというものだった。

 1955年には移転話が持ち上がった。地域執行委員会による移転決定の背景には、国の指導者だったニキータ・フルシチョフによる文化全般に対する否定的な態度があった。博物館スタッフだけでなく、地域の人々から抗議の手紙がモスクワに送られ、移転決定は覆された。

 博物館の2回目の危機は、ソ連共産党サハリン州委員会初代書記長パべル・レオーノフだった。彼は、日本人を想起させるすべてのモノに嫌悪感を示した。レオーノフの命令により、博物館は日本の建物から出て、社会主義が発展した時代にふさわしい典型的な建物に移るプロジェクトを開始した。しかし1978年、レオーノフはサハリンから異動になって、博物館はその場にとどまることが出来た。

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