終戦直後まで、北方領土と根室半島を結んだ通信回線。国後島を経て択捉島の東端まで海底も含め、総延長は約370キロに及ぶ。島の暮らしの「生命線」だった通信回線の歴史を追った。(北海道新聞2016/10/31)
■標津ルート
標津川左岸。河口近くにかつて標津と国後島泊の間約25キロをつなぐ海底ケーブルの「海底電信基地」があった。れんが造りの建物は地震などで崩れ、わずかに痕跡を残すだけ。往時の建物が、標津町ポー川史跡自然公園に復元されている。
1897年(明治30年)、政府は国後島から択捉島まで通信回線網を敷いた。千島海峡は古くからラッコやオットセイなど海獣類の一大生息域で、当時は外国船の密漁が横行していた。ロシアの南下政策にも警戒を強める必要があり、通信手段の確保が急がれた。
北方領土の通信回線に詳しいポー川史跡自然公園の元園長椙田(すぎた)光明さん(65)は、ルートについて「直線距離で最短の野付半島沖は潮の流れが速く、難しいと判断し、標津沖は潮の流れが緩やかなので選ばれた可能性がある」と解説する。
97年10月に業務を始めたが、99年2月、流氷で切断。7~8月に復旧させたが、再び被害に遭う恐れがあり、1900年に廃止、根室ルートに変更された。
その後、建物は手つかずのまま、94年10月の北海道東方沖地震で完全に崩壊した。基地跡には、れんがの欠片がわずかに散らばる。
■根室ルート
根室市西浜町ハッタリ浜に、海底ケーブルの中継所「陸揚庫(りくあげこ)」がその姿をとどめる。国後島最南端のケラムイまで約38キロ。1900年のルート変更に伴い、建てられた。千島回線陸揚げ庫保存会の調べによると、建築工学分野では、道内最古のコンクリート建造物という。
ケーブルは太さ約7センチ。ドイツ製とみられ、一部が道立北方四島交流センター(ニ・ホ・ロ)で展示されている。ケーブルの両側に電話の受話器がつながれ、今も実際に会話ができる。
戦後、陸揚庫は民間に払い下げられ、漁具などの倉庫に長く利用された。根室市は2011年度から保存の検討に入り、13年度に所有者から土地と建物を100万円で購入。15年度は周辺のごみなどを撤去した。
保存会長の久保浩昭さん(48)=根室市=は、父親がケラムイの出身。「ケーブルは根室、ロシア双方にとって、重要な歴史遺産であり、友好のシンボルだ」
■幻の“復活”
1956年、日ソ共同宣言を受け、北方領土返還の機運が高まると、当時電電公社(現NTT)職員だった大本保さん(85)=根室市出身、釧路町在住=の身辺も慌ただしくなった。
「色丹島に無線局を開くことになれば、行ってもらう。その前に勉強を」。上司の指示で58年から2年間、三重県鈴鹿市の施設で研修を受けた。当時20代後半。大きな仕事に「やるぞ」と、気持ちが沸き立った。
四島で暮らした経験はないが、根室勤務時代、国後島や択捉島で勤務経験のある先輩からよく話を聞いた。「島はすぐ帰ると思ってた。ここまで長引くなら、もっと詳しく聞き、きちんと記録に残しておくべきだった」。そんな思いに駆り立てられ、北方領土の通信回線網について元島民から聴き取りを続けている。
「軍事目的で敷設されたと誤解されていますが、民間用として使われ、暮らしに欠かせないものでした」
ルートなどは古い資料に記録されているが、聴き取りを通じ、基地や無線局を支えた人たちの暮らしぶりが浮き彫りになってきた。
「ケラムイの基地までは岬沿いに毎日馬で通った」「紗那(しゃな)では夜、自家発電施設を持つ無線局と郵便局にだけ電気がともっていた」
そうした証言を一つ一つ積み重ね、「本当の姿を伝えていきたい」と願う。
■兄が逓信所職員・山田さん(択捉島出身) 最南端・丹根萌の陸揚庫 津波で跡形も無く
択捉島出身の山田勇さん(90)=札幌市=は2015年7月、北方領土の元島民が古里を訪れる自由訪問団に最高齢で参加し、最南端の丹根萌(たんねもい)を訪れた。徴兵で離れて以来70年ぶり。当時は国後島からつながる海底ケーブルの中継地だったが、建物などは津波で流されたのか、跡形も無くなっていた。
山田さんの兄は、逓信所の職員としてケーブルの見回りや修理を担った。山田さんも陸揚庫に出入りし、遊んだ思い出の場所だった。自由訪問では「上陸時間が限られている中、一生懸命、浜を探したが、見つけられなかった」と悔しがる。
陸揚庫はれんが造りの頑丈な造りだったという。幅2・5メートル~3メートル、奥行きは5メートルほど、高さは3メートルほど。階段で地下約2メートルまで下りることができ、ケーブルがつながっていた。地上部にスイッチがあり、回線のオンとオフを切り替えた。
択捉島と国後島の間の国後水道は波が荒く、潮流も激しく変化した。特に冬季は流氷に擦られてケーブルが切れてしまい、通信が止まって無線でのやりとりを余儀なくされた。国後側はアトイヤ岬から、白糠泊にルートを変更している。
6~8月に修理のための船が丹根萌に訪れたのを覚えている。作業の腕を見込まれ、富山県から国後島や択捉島に派遣された作業員もいた。ロシアの南下政策で、両島の通信網整備は重要な位置を占めていた。
山田さんが息子らと70年ぶりに訪れた古里は、浸食によって砂浜が小さくなるなど、風景が変わっていた。牧畜業を営んだ生家のあった場所は、馬を囲った柵の跡が残るのみだった。
「家族に当時の島の様子を伝えたが、もう少し何か証しのような物が残っていれば…」。70年という時間の重みを感じた自由訪問だった。
北方領土との通信回線に関する資料などを見学できる施設は次の通り。
■北方領土遺産
道が2015年に着手した事業。北方領土ゆかりの建物や文書、元島民の証言などを後世に伝えながら、領土問題への理解を深め、返還運動や日ロ交流の後継者を育てる狙い。(水野薫、樋口雄大)
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