旧ソ連軍が1945年(昭和20年)8月28日、北方四島に侵攻を開始してから76年。最初に占領された択捉島で少年時代を過ごした岩崎忠明さん(87)=札幌市=は今、かつてないほど島を遠くに感じている。領土問題解決の兆しは見えず、新型コロナウイルス禍でビザなし渡航も2年連続で中止された。「古里に行きたいのに、行けない」―。焦りといら立ちが募る。(北海道新聞2021/8/27)
「自分には古里の変貌を見て、島に行けない元島民に現状を報告する義務がある」。岩崎さんはそう言うと、択捉島紗那(しゃな)墓地にある岩崎家の墓を5年前に写した写真を見つめた。
高校卒業後、銀行で働いていた岩崎さんは90年8月の北方領土墓参で戦後初めて択捉島に上陸し、生まれ育った紗那を43年ぶりに訪れた。家族7人が暮らした郵便局官舎などの住居は跡形もなくなり、ロシア人の集合住宅が立ち並んでいた。変わり果てた景色に「日本は敗戦国なんだな」と改めて思い知った。
岩崎家の墓を見つけたのは、それから6年後の墓参だった。墓には祖父母と6歳で亡くなった姉が眠る。「墓参りをする意味ができた」と胸をなで下ろし、他の元島民の分も含めて慰霊しようと心に決めた。
終戦当時、岩崎さんは11歳。岩崎さんによると、旧ソ連軍は45年8月28日に択捉島に上陸し、9月3日に紗那の砂浜に現れた。岩崎さんが水産加工場の柱に隠れて様子をうかがうと、5、6人のソ連兵が肩から小銃を下げて歩いているのが見えたという。
北方四島は9月5日までに占領された。岩崎さん一家は46年2月から官舎でソ連兵の夫婦と共同生活を始めたものの程なく追い出され、紗那にある母の実家で暮らした。47年夏に強制退去させられて樺太(サハリン)経由で函館港へ。その後は端野村(現北見市)に移住。空き家がなく、しばらく村の集会場に身を寄せたが、住民の好奇の目にさらされたことがつらかった。
これまで紗那訪問は16回を数えるが、2018年を最後に訪れていない。ビザなし渡航は昨年からコロナ禍の影響で中止が続く。「返還運動も、四島に住むロシア人との交流も痛手を受けた。今まで培ったものが全て中断された」と嘆く。
ちょうど1年前の昨年8月28日には、安倍晋三前首相が辞任の意向を表明した。安倍前首相はロシアとの平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本に引き渡すとした日ソ共同宣言を交渉の基礎に位置付け、事実上の「2島返還」路線にかじを切ったが行き詰まった。「2島返還」に反対の立場だった岩崎さんは「四島返還という国の方針を変えるべきではなかった。毅然(きぜん)とした態度の領土交渉をするべきだ」と訴える。
終わりの見えないコロナ禍。高齢で足腰は衰え、残された時間も少ない。それでも岩崎さんは言う。「かつて住んでいた場所の今を伝えていかなければ」。再び古里に行く日が来ることを願っている。(村上辰徳)
自由訪問で故郷の択捉島・紗那を訪れた岩崎さん(中央やや左の白い帽子に青いリュック)。戦前、誰の家がどこにあったか、訪問団員に丁寧に説明してくれた(2016年9月)
訪問団員に紗那川の思い出を語る岩崎さん(2016年9月の自由訪問で)
母校の紗那国民学校を訪ねた帰り道、一人坂道をのぼる岩崎さん(2016年9月の自由訪問で)
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