1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦から80年がたった。米ハワイの真珠湾を攻撃した旧日本海軍の機動部隊は開戦直前、北方領土択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾にひそかに集結し、出撃した。戦端を開いた奇襲作戦の出発地となった島は終戦後に旧ソ連の侵攻を受け、今もロシアに不法占拠された状態が続く。湾内を埋めた大艦隊を目撃した元島民は訴える。「戦争の『始まりと終わりの場所』が、北方領土だったことを忘れないでほしい」(北海道新聞2021/12/8)
「とにかく船がいっぱいあった。大人たちに『見ちゃいけない』と怒られた」。択捉島出身の向田典子さん(85)=札幌市=は、生まれ育った島中部・天寧(てんねい)に面する単冠湾に、見たこともない数の軍艦が停泊していた光景を今も覚えている。
■絶たれた通信
単冠湾には真珠湾攻撃の約3週間前の41年11月20日、機密保持と警戒のために先遣隊が到着した。元将校の回想録によると、22日までに「赤城」「加賀」など空母6隻を含む軍艦30隻が湾内に集結した。太平洋側の単冠湾は、冬でも流氷に閉ざされることの少ない天然の良港だ。空母が停泊できるだけの水深もある。周辺の住民も約70戸と少なく、最高機密の保持に最適な場所だった。
上陸した先遣隊の士官は、天寧の郵便局を兼ねていた向田さんの家を訪れて、局長だった父親に「電信電話回線を切れ」と命じた。家の周辺に兵士が立ち、向田さんは「郵便局は物々しい雰囲気で、子供ながらに『いつもと違う』と感じた」と振り返る。島と北海道本島を結ぶ通信が絶たれ、食料などの物資が不足した。
天寧の対岸、年萌(としもい)では松尾正美さん(86)=北広島市=が湾の内側に小型艦、外側に大型艦が停泊しているのを見ていた。浮上した潜水艦の乗組員が手旗信号を繰り返し、夜にはサーチライトが点滅した。住民たちは「ここに集まったならソ連との戦争だ。カムチャツカに行くんじゃないか」とうわさしていたという。
零戦などを載せた機動部隊は11月26日朝、単冠湾を出発した。松尾さんは「朝もやの中、1隻、また1隻と軍艦が岬をかわして沖に出て行くのが見えた。住民は『とうとうソ連とやるのか』と話していたが、まさかハワイとは夢にも思わなかった」と話す。
島の住民には最後まで、大艦隊の正体は知らされなかった。向田さんの弟の松本侑三さん(80)=札幌市=は「亡くなった兄は、真珠湾攻撃後、艦名の『加賀』と書かれた缶詰用の木箱が天寧の浜に漂着した、と住民から聞いていた。住民はその箱を見て、初めて艦隊の正体を知ったのではないか」と推測する。
■続く不法占拠
太平洋戦争は45年8月15日、天皇が玉音放送で日本のポツダム宣言受諾を発表し、終結した。一方、旧ソ連は当時まだ有効だった日ソ中立条約を無視して対日参戦し、同28日に択捉島に上陸。9月5日までに北方四島を占領し、日本人は島を追われた。
北方領土の「語り部」として活動する松本さんは、講演などの際に必ず真珠湾攻撃の話をする。「海軍が単冠湾に集結した時こそが、旧ソ連に北方領土を奪われる『本当の始まり』だった」と思うからだ。古里の返還と平和への願いを込めて、松本さんはこう言う。「北方領土の歴史を知ることは、太平洋戦争の悲しい物語の始まりを知ることでもある。記憶が風化しないよう、択捉島がどんな島だったのかを語り続けたい」(村上辰徳)
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