国後島のユジノクリリスク(古釜布)は2度、再建された

国後島ユジノクリリスク(古釜布)は、モスクワから8つのタイムゾーンを隔て、7,000hm離れた東の国境に位置している。同じ名称を持つ地区行政の中心地は、これまで少なくとも2回再建されているが、それはなぜか。ユジノクリリスクに最初に定住したのはアイヌ民族である。ロシア人、日本人による島の開発が始まる前のことだ。18世紀の終わりまでに島にはアイヌ、ロシア人(亡命者、流れ者、軍人)の集落があり、同様に日本の交易所や駐屯地もあった。1855年国後島は日本に割譲された。ユジノクリリスクの前身であるフルカマップ(古釜布)の村では、近隣の沖ノ古丹、イソヤンベツと同様に50軒ほどの家や電信設備がある郵便局、商店があった。1945年に国後島はロシアに戻った。1946年2月に南サハリン州の一部になり、その後、ユジノクリリスクが設置された。国後島では活発な建設が始まった。1947年までに、島はソビエト連邦各地から移民と季節労働者でいっぱいになった。これがユジノクリリスクの最初の再建である。2回目の再建は、1994年の地震津波の後に行われた。ユジノクリリスクは、すべての建物を30mの高台に移動させ、再建された。悲劇は1994年10月5日の夜に発生した。クリル諸島の太平洋沿岸を津波が襲った。南クリル地区の一部である色丹島は震度8~9ポイントの揺れを感じ、11人が死亡するなど最も被害が大きかった。津波の高さは10mに達した。数隻の小さな漁船は陸に打ち上げられ、中には150mの長さの船もあった。ユジノクリリスクでは津波の高さはやや低く5~6mだった。地震により家屋が損壊し、電化製品や調理器具が壊れ、壁が部分的に崩れた。地震津波の後、ユジノクリリスク、色丹島のクラボザボツコエ(穴澗)、マロクリリスコエ(斜古丹)は再建された。しかし、色丹島では1994年の地震被害で人口の深刻な流出を招いた。地震前の人口7,500人のうち島に残ったのは2,800人だった。2021年、南クリル地区には1万2,000人が住んでいる。(サハリン・クリル通信2022/1/14)

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古釜布1915年

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国後島1946年

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ユジノクリリスク(古釜布)1975年

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1994年10月5日の地震による被害

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