南サハリン州はなぜ設置されたのか–。サハリンの歴史には多くの重要な時期がある。しかし、それらの一部はあまり知られていない。南サハリン州はわずか11カ月存在しただけだが、そのことが、その時期に起きた出来事の重要性を損なうものでは全くない。1945年9月2日の日本との戦争終結から1946年2月2日の南サハリン州の設置を経て、1947年1月2日にサハリンの南部と北部が統合されサハリン州となるまでを振り返ってみる。この時期に起きた出来事は、サハリン州公文書館に保存されている南サハリン州民政局の資料に残されている。(サハリン・クリル通信2022/2/2)
1946年5月1日の南サハリン州の集会
南サハリン州はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のハバロフスク地方の一部として、1946年2月2日に設置された。日本との戦争が終わって半年後のことである。サハリン南部、モネロン島、トド島そしてクリル諸島(千島列島)が含まれていた。赤軍が上陸する前、南サハリンは日本政府に直接従属していた。4支庁15町27村で構成されていた。一方、クリル諸島は北海道庁に属していた。エトロフ島とウルップ島の間の海峡からから第一クリル海峡(占守海峡)までの島々には現地に恒久的な行政はなく、民間人は7月から9月までの漁期にのみ出稼ぎできていた。
日本との戦争が終わった後、南サハリンではしばらくの間、日本の樺太庁とソビエト民政局の組織が共存していた。樺太庁が廃止されたのは1945年1月である。1946年7月には、南サハリン州として、南クリル地区(国後島、色丹島、歯舞群島)、クリル地区など(択捉島など)14地区が指定された。1945年8月、軍事作戦が開始される前に、南サハリンには39万1,000人の日本人が住んでいた。そのうち25万4,000人が成人で、13万7,000人は15歳未満の子供だった。人々は石炭、製紙産業、農業、貿易、輸送、通信に従事。戦争開始前に4分の1が日本に避難した。1946年7月時点では島の南部に29万人が残っていた。
1946年の国後島
日本人は南サハリンで石炭、木材、漁業を発展させた。しかし、必要な投資をせず原材料の資源を回復するための措置を講じていなかった。石炭は人力で採掘され、賃金は最も安かった。材木は年間300万立方メートル伐り出され、40年以上続いた伐採と大規模な火災、害虫により森林5億立方メートルのうち2億6,500万立方メートルが伐採されていた。サハリン南部では、食品や化学産業は発展せず、製造業や機械、造船もなかった。設備や資材のほとんどは日本から持ち込まれた。
川上炭鉱(現シネゴルスク)のメーデー集会
1946年2月2日の南サハリン州の設置と同時に、すべての大企業は国有化された。企業の総資産は5億5,440万ルーブルに達した。ソビエトの経営幹部が入ってきた時、機械設備は不足し、多くの鉱山は停滞していた。貴重品はすべて日本に持ち去られ、労働生産性は低く、サボタージュ、脱走、妨害行為が広く行われた。しかし、こうした人々の行動は理解できる。賃金の遅れ、貧弱な医療や食糧供給など、企業の国有化の前の彼らの暮らしはとても苦しかったからだ。
最も発展した漁業は、戦争中に最大の被害を受けた。なぜなら軍隊の上陸は漁業会社があった場所を含む海岸全体で行われたからだ。このためソビエト当局は、日本の生産を迅速に回復し、高品質の製品を生産するため、それらを再構築するという目標を設定した。このため、1946年3月に地元住民から1万4,000人以上を漁業に従事させ、加えて本土から834人の従業員を連れてきた。
サハリンでは1910年から1944年にかけて鉄道が建設された。しかし、ソビエトが入ってきた時には多くの問題を抱えていた。特に94両の蒸気機関車のうち、まともに動いたのは56両だけだった。車両は改修と補充が必要だった。その結果、1946年に修理のために700万ルーブル以上を割り当てる計画が立てられた。道路も状態はよくなかった。総延長6,133kmのうち、舗装されていたのはわずか43kmだけだった。空港には自前の滑走路がなかった。6カ月間で約1,000人の乗客と85トン足らずの貨物、郵便物が運ばれた。
1946年4月、ソビエト政府は移民政策に着手し、本土から南サハリン州に人々を連れてきた。ブリヤンスク、カルーガ、コストロマ、クルスク、オリョール、ベンザ、リャザン、タンボフからやって来た1,000家族が農業に従事した。さらに3,000家族が漁業に従事するため移住してきた。移住者には既存の日本人家屋が割り当てられた。1946年には住宅建設プログラムが策定され、ユジノサハリンスク(豊原)、ホルムスク(真岡)、コルサコフ(大泊)など11の町にアパートや住宅が建てられた。
Simakovo(ホルムスク地区)のVNIRO従業員1946年
ソビエト国民のために教育と医療問題を解決する必要があった。そこには大きな問題があった。日本の学校では主として軍事と日本語を教えており、数学や物理、化学にはほとんど注意が払われていなかった。病院の人材不足は深刻だった。ソビエトが入ってくる前、医師は定員の58%に過ぎなかった。ロシア市民は軍の赤軍の病院がなかったため、日本の病院で治療を受けるしかなかった。
南サハリン州は1947年1月2日にサハリン州と統合された。歴史家は、短期間しか存在しなかった南サハリン州がなぜ必要だったのか、簡単にしか説明していない。それは、サハリン南部に多くの日本人が住んでいた時期であり、実際の行政がソビエト政府と日本政府の間で分割されていた特別な時期だったからである。そして、日本人の帰国問題(引き揚げ)が解決されるとすぐに、サハリンの南部と北部は統一されたのである。
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