【特集】海部政権秘録『北方領土返還の重い扉が開いた日』#3終 SAKISIRU 2022/1/31
1991年4月のミハイル・ゴルバチョフソ連大統領の初訪日前に行なわれた海部俊樹首相(当日)と橋本龍太郎大蔵相の極秘の会談を受け、日本政府の巨額支援というお土産を持って自民党の小沢一郎幹事長(当時)はモスクワに入った。同3月に特使として派遣した海部氏は「当時はわらをもつかむ心情だった。小沢君に何とか頼む。話をまとめてきてほしい」とさえ思っていた、と振り返った。
しかし、結論からいうと、小沢氏はこの話をまとめることができなかった。会えるはずのゴルバチョフ氏の側近に会えない。そればかりか、ゴルバチョフ氏の側近という触れ込みも、どうやら危うい状況になっていたという。それだけ、ソ連政界の状況も混乱していた。裏交渉が不発に終わり、モスクワの小沢氏から海部氏のもとに連絡の電話がかかってきた。
「申し訳ない。総理。あの話はなかったことにしてほしい。あの話はなかったことにしてくれ。詳しくは帰ったら話します」
海部氏は落胆した。「オレもがっかりしたよな。期待もしとったからな」
「私は物乞いに来たのでない」
巨額支援はソ連側にとってかなりセンシティヴな問題だったようだ。ゴルバチョフ氏も来日中、経済援助に関して「私は物乞いに来たのではない」「ドルで原則を買うことは断じて許さない。こういうアプローチは屈辱的だ」と言い出した。
そのころ、国内で起こっていた物価値上げや炭鉱スト、民族問題に加え、多額の資金援助で「島を売り渡した」となれば国内世論の批判が高まってしまう。日本側に島々を返還するという妥結に応じてしまえば、国内の政治基盤が崩れ落ちてしまい、自殺行為になりかねない危機感があったとも分析されている。
巨額支援について、ソ連側からの具体的な数字の提案はなかったというのが当時の外務省幹部の話として、各紙の報道で伝えられている。ゴルバチョフ氏にとってはこれまでのソ連首脳部の姿勢を改めて、両国間の領土問題があることを公式に認め、今後、平和条約締結に向けて協議を始めることを約束することがギリギリの線だった。
昨年、東京新聞(中日新聞)と北海道新聞が合同で行なった書面インタビューで、ゴルバチョフ氏は1991年の訪日に向けて準備を開始した際に、「わが国には熟考された対日政策がなかった」と打ち明けた。しかし、中曽根康弘首相、土井たか子日本社会党委員長、宇野宗佑外相、枝村純郎駐ソ連大使、池田大作創価学会名誉会長らといくつかの会談を重ね、「私は日本をよりよく知ることができ、私たちの関係の話題に慣れていった」という。
海部氏との首脳会談についてはこう振り返った。
ペレストロイカの「新思考」政策は、対日外交においても成果を上げると確信していた。この政策のおかげで91年までに、冷戦の終結、ドイツ統一、中国との関係の正常化、多くの国際紛争の解決、国際関係での信頼回復など、世界各地のパートナーとともに、優れた結果を達成することができたからだ。そして(日ソの領土問題と)同様に複雑か、もしくはもっと複雑なこれらの問題は全て解決された。私はやや楽観的になっていた。
ゴルバチョフ氏が未来に向けて、日本と新しい時代を築こうとしたのは事実だ。2日目、衆院本会議場の壇上に立ったゴルバチョフ氏は「無上の光栄」として、歴史的な国会演説をした。
後退させぬ新思考外交、ソ連国内での痛みを伴う革命的改革、そして、歴史の再評価や世界平和にまで踏み込み、最後にこう述べて、演説をしめくくり、万雷の拍手を浴びた。
「レフ・ニコラエビッチ・トルストイは日本の作家、徳富蘆花にこう述べました。『あなたはロシアと日本の長期にわたる友好を確立する方法についてお尋ねになっています。これは必要なことです。私たちが一つの目標に向かう場合にのみ、共通の意志に貫かれた私たちは、この目標に達することができるでしょう』。この言葉を、私たち両国民がお互いの本当の出会いの道を指し示してくれる導きの星としようではありませんか」
来日3日目の4月18日、東京・元赤坂の迎賓館。時計の針はすでに午後11時をまわっていた。2人で署名した日ソ共同声明には歯舞、色丹、国後、択捉の四島の帰属について話し合ったことがうたわれ、四島の名称が初めて日ソ間の合意文書に明記された。
「共同声明は新しい日ソ関係の枠組みを示すものであります」と総括した海部氏。ゴルバチョフ氏も「共同声明は大きなことを乗り越えたことを証明している」と成果を語って見せた。
『嘘ついたら針千本飲ます』
海部氏は私がインタビューの際に持参した数々の写真や資料をみながら「あっそうだ」と言って、この共同声明を結ぶ際のエピソードを思い出した。全ての作業が終わり、最後の記者会見に臨む直前、海部氏はゴルバチョフ氏にこう伝えたという。
「日本では、子供に親は『嘘ついちゃいけない』と伝えている。『嘘ついたら針千本飲ます』と教えている。だから、小指と小指をひっかけて約束しよう」
ゴルバチョフ氏は「やろう。そうしよう」と応じたという。
署名を終えた後、2人とも立ち上がり、右手で共同声明を交換、握手を交わした。そうして、後ろを振り向いたゴルバチョフ氏の肩をぽんぽんとたたいて、右手の小指を差し出す。笑顔になったゴルバチョフ氏がそれに応じて、指切りげんまんをした。
数秒間、お互い両目をみながら笑顔で小指と小指の約束をした。カメラのフラッシュがたかれ、会場は笑顔と拍手に包まれた。
今となっては海部・ゴルバチョフ会談には様々な解釈があるだろうが、これほど領土問題解決の期待感が高まったことはなかったのではないだろうか?
2人が舞台を去り、再び遠のく4島
その4か月後、ゴルバチョフ氏は守旧派による8月クーデターで失脚し、クリーンでさわやかなイメージで国民の人気が高かった海部氏も政治改革関連法案が廃案になったことを受け、「重大な決意で臨む」と発言したことをきっかけに、首相の座を追われた。
その後、ソ連邦も崩壊し、新生ロシアを率いるボリス・エリツィン大統領が日本の交渉相手となった。領土問題解決の機運はまだ続いており、1992年には、ロシア有数の知日派外交官として知られるゲオルギー・クナーゼ外務次官が、国後、択捉の帰属協議と歯舞、色丹の返還協議を同時並行で進め、合意したら平和条約を締結するとの秘密提案を日本側に打診する。
事実上の「2島先行返還」によるアプローチ提案だった。時事通信でモスクワ支局長、ワシントン支局長を務め、現在は拓殖大学海外事情研究所の教授を務める名越健郎氏が日本記者クラブのエッセーで当時の交渉の内幕を暴露した。クナーゼ提案について、「日本側は一部の外務省幹部だけで検討し、『四島返還ではない』として拒否した。対案を出して本格交渉に入ろうともしなかった」のだという。
名越氏は後に、モスクワでクナーゼ氏に直撃取材し、「1956年(日ソ)宣言で約束した歯舞、色丹はともかく、国後、択捉を交渉なしに引き渡すことはできない。あれがぎりぎりのロシアの譲歩だった」と述懐するのを聞いた(参照:日本記者クラブへの名越氏寄稿)。
21世紀に入って両国の首脳は変わり、今度はウラジーミル・プーチン大統領と安倍晋三首相が意欲的に交渉を重ね、領土問題解決に取り組む。昨年暮れに北海道新聞が安倍氏への単独インタビューを掲載。安倍氏が2018年11月のシンガポールでの日露首脳会談で1956年の宣言を交渉の基礎とし、「2島返還を軸とした交渉に転換したことを事実上認めた」と報じた。安倍氏は北海道新聞のインタビューに「100点を狙って0点なら何の意味もない。到達点に至れる可能性があるものを投げかける必要があった」と振り返った。
海部氏の遠い目の先には…
この30年、両国は揺れ動いてきた。しかし、北方領土問題が両国の間に持ち上がってから、国境線は1ミリも動いていない。むしろ、海部氏とゴルバチョフ氏がこじ明けた重い扉はまた閉まってしまったかのような印象を受ける。
2人が交わした指切りげんまんの約束は、1991年春の東京の桜が散るように、消え去った。
ゴルバチョフ会談について振り返るインタビューが終わりに近づいていた。1時間30分以上、私の質問に答え続けた最後に、海部氏はしみじみとこう振り返った。
「思い出としては残るけど、残念や悔しさも残るわな。結論がうまくいかなかったから。(解決まで)一番近く、手に届くところにきていながら、お互いのミスがあったのか、不十分な対応があったのか、逃げられちゃったというわけだよな。あーっといううちにな。それが今や泡沫のようになってしまい、イロハのイからやり直さなくてはいけないようなところまで来てしまった。この気持ちを忘れないで、大切に持ち続けて、それこそ志あれば必ずなんとかなるという気持ちで、ひとつ法と正義にしたがってやり遂げたい」
この場を借りて、対露領土交渉に関わる全ての方々に、海部氏の尊い遺志をお伝えしたい。そして、90歳になってもモスクワでまだ意気軒昂としているゴルバチョフ氏にも、ロシアと新しい時代を築こうとした海部氏の情熱のメッセージを改めて送りたいと願う。(佐々木 正明 ジャーナリスト、大和大学社会学部教授)
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