戦争2度、追われ旭川へ 残留邦人・降籏さん「ロシア軍が憎い」樺太から戻れず/ウクライナから避難

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 第2次世界大戦終戦後に樺太(ロシア極東サハリン)に残留し、その後、ウクライナで50年以上暮らしてきた降籏英捷(ふりはた・ひでかつ)さん(78)が19日、ロシアのウクライナ侵攻から逃れ、ポーランド経由で帰国した。道内に永住帰国しているきょうだいらが成田空港で出迎え、無事の再会を喜び合った。2度の戦争に翻弄(ほんろう)され、孫たちと祖国に戻ることになった降籏さんは「非常に不安だった。戦争が早く終わることを願う」と語った。(北海道新聞2022/3/20)

 19日夕、成田空港の国際線到着ロビー。2011年の一時帰国以来、11年ぶりに帰国した降籏さんは、兄の信捷さん(80)=稚内市=や妹の畠山レイ子さん(70)=旭川市=に笑顔で出迎えられ、「きょうだいたちと近況を語り合いたい」と安心した表情を見せた。

 降籏さんは1歳の時に日本統治下の南樺太終戦を迎えたが、兄のけがや母の出産などで残留を余儀なくされ、1954年に一家で旧ソ連国籍を取得。降籏さんは71年に妻と息子とともにウクライナに移住し、現在は首都キエフから約130キロ西にあるジトーミルで1人で暮らしていた。

 ところがロシアの侵攻が始まり、ジトーミルもミサイル攻撃などによる被害が発生。降籏さんは今月5日に孫娘(18)、孫息子の妻(27)、ひ孫(2)と4人で車に乗り、ジトーミルを脱出。車の故障や食料不足などを乗り越え、8日に隣国ポーランドにたどり着いた。降籏さんのウクライナのパスポートは有効期限が切れていたが、日本サハリン協会(東京)の支援で日本の査証(ビザ)などが発給され、帰国が実現した。

 降籏さんは成田空港で、「住宅も学校も全壊し、複数の犠牲者が出た。毎晩、空襲警報が鳴り、非常に不安だった」とロシア語で記者団に説明。「ロシア軍は理由もなくウクライナを攻撃し、多くの市民が犠牲になった。ロシア軍が憎い」と訴えた。

 降籏さんは20日に旭川市に移動し、当面は妹の畠山さん宅に身を寄せる予定。日本政府はウクライナからの避難民の受け入れを進めているが、外務省や道によると、道内への受け入れは初めてとみられる。

 ただ、総動員令が発令されているウクライナでは18~60歳の男性は原則出国できず、ジトーミルにいる孫息子は火炎瓶を作り、ロシア軍と戦っている。ウクライナに再び平和が訪れるのかは、今はまだ分からない。降籏さんは「全ての状況が落ち着いたら、ウクライナに帰りたい」と話し、一日も早い終戦を祈った。

<ことば>サハリン残留邦人 終戦後、サハリン(樺太)から日本本土に引き揚げられず、残留を余儀なくされた日本人。終戦時には約40万人いたとされ、大部分は1959年までの集団引き揚げで帰国したが、その後もさまざまな理由で数百人が残り、多くは旧ソ連(ロシア)国籍を取得した。日本への永住帰国は91年に始まり、厚生労働省などによると、同伴家族を含めて136世帯307人(昨年7月11日時点)が帰国した。日本サハリン協会によると、消息をつかめている海外在住のサハリン残留邦人は約50人。(村上辰徳、文基祐)

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「無事到着できうれしい」樺太に残留、ウクライナで50年生活の降籏さん 旭川で妹と抱擁

 第2次世界大戦後に樺太(ロシア極東サハリン)に残留、その後、ウクライナで50年以上暮らし、ロシアによる軍事侵攻を逃れて帰国した降籏英捷(ふりはたひでかつ)さん(78)が20日、旭川空港に到着した。旭川市には妹の畠山レイ子さん(70)が住む。この日は札幌から別の妹も駆け付け、無事の再会を喜んだ。(北海道新聞2022/3/21)

 孫娘(18)、孫息子の妻(27)、ひ孫(2)と4人で前日に帰国した英捷さんは、成田空港で出迎えたレイ子さんらと20日、旭川に到着。英捷さんらが到着口に姿を見せると、妹の婦美子さん(72)や春美さん(68)と固く抱き合い、ともに涙を浮かべた。

 英捷さんは「長い道のりを経て、ようやく家族と無事到着できてうれしい」と話し、「戦争には反対。いつかは(ウクライナとロシア)両国の関係も解決するはず」と祈った。状況が落ち着いた後でウクライナに戻るか、日本に残るのかについては、「少し休んでから考えたい」という。

 再会は10年ぶりという婦美子さんは「ようやく旭川に着き、ほっとしている」と安心した表情。レイ子さんも「もう二度と会えないかもしれないと思っていた。今後のことは考えられないが、誰かが助けてくれる。大丈夫」と自らに言い聞かせるように話した。

 英捷さんは1歳の時、日本統治下の南樺太終戦を迎えたが、兄のけがなどで残留を余儀なくされた。その後、1971年、妻らとウクライナに移住。戦争に2度も翻弄(ほんろう)された形だ。

 NPO法人日本サハリン協会の斎藤弘美会長は「次はこれからの生活のことが大事。今後もサポートが必要になる」として支援を訴えた。同協会では英捷さんらの脱出にかかった費用や当面の生活費などへの募金を呼び掛けている。斎藤会長は22日に旭川市今津寛介市長と面会し、今後のサポートを要請する予定。(和泉優大)

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