ロシア軍の侵攻で300万人を超えるウクライナ人が故郷を追われている。75年前、ソ連(当時)に古里の北方領土を追われた男性が神戸新聞の取材に応じた。ロシア政府からの一方的な表明で北方領土の返還実現が遠のく中、「21世紀にこんな残酷なことが許されるのか」と訴える。(神戸新聞2022/3/22)
神戸市中央区の山本忠平さん(87)は択捉島の蘂取村出身だ。「千島歯舞諸島居住者連盟」の語り部として戦前の島での暮らしやソ連軍占領下の状況とともに、故郷を追われた思いを語ってきた。
「着の身着のままの私たちは、引き揚げ者という名の難民でした」。国民学校1年生のとき、戦争が始まった。終戦直前の1945年7月には北海道根室市に買い出しに行っていた山本さんの父親が空襲で亡くなった。
島には米軍が現れないまま終戦。「武装解除し、現場にとどまり、指示を待て」。そんな命令を最後に、国や軍隊からの連絡は途絶えた。しばらくして択捉島にやってきたのはソ連軍だった。
通信は遮断され、海を渡ろうとした人は射殺された。財産は奪われ、行動の自由も言論の自由もなくなった。労働者として強制的に移動させられてきたロシア人やソ連軍の軍人らとの共同生活が始まった。
2年後の47年夏ごろ、島に残りたければ、ソ連の国籍を取るように言われた。村の人々は全員、拒否した。「理不尽な選択を迫られ、追い出された」。ほとんどの荷物を置いたまま家族で船に乗せられ、函館の収容所へ。助け合って生きてきた村の人々はばらばらになった。
山本さんは母親の出身地、秋田県に身を寄せ、高校卒業後に神戸の会社に就職した。故郷に墓参りに行けるようになったのは、43年が過ぎた1990年からだ。それから約30年、山本さんは、島に移り住んだロシア人との交流を積み重ねながら地道に返還を訴えてきた。そこにロシアのウクライナ侵攻が始まった。
「平和の祭典である五輪閉幕直後の侵攻に、心臓が止まりそうなほどショックを受けた」と山本さん。ウクライナから着の身着のままで避難する人々と自身の経験を重ねる。
欧米と歩調を合わせてロシアに制裁を課す日本に対し、ロシアは平和条約締結交渉の中断だけでなく、元島民の自由訪問やビザなし交流さえ停止すると表明した。
山本さんは「30年間交流を続けてきたロシア人に悪い人はいない。プーチン大統領一人のために、息の長い交流が消えてしまうのは悲しく、残念」とする。
一方で、ロシア国内では弾圧の中でも反対の声を上げ続ける若者らの姿に、「世代が変わり、ロシアでも市民の声が届くようになれば、解決への道が開けるのではないか」と期待も見いだす。「ウクライナの人たちは私たちより苦しい思いをしている。一日でも早く砲撃がやんでほしい」と願った。(高田康夫)
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