ロシアがウクライナに侵攻してから、まもなく4カ月になる。太平洋戦争後、樺太(サハリン)や旧満州(現中国東北地方)などからの引き揚げ者の中には、戦火を逃れるウクライナの人たちに、77年前の自分たちの姿を重ねる人もいる。「戦争」によって日常の生活を奪われ、身の危険にさらされるとはどういうことなのか―。心に深く刻まれたつらい引き揚げの記憶があるからこそ、ウクライナの平和を強く願う。(北海道新聞2022/6/20)
2月24日にロシアがウクライナに侵攻した時、室蘭市の尾形順子さん(84)は信じられない思いだった。「戦争を起こさないように知恵を出しあってきたはずなのに、なぜ今になって」
順子さんは太平洋戦争の終戦時、旧満州(現中国東北地方)の遼陽で両親と4人の妹と暮らしていた。1945年(昭和20年)8月9日に旧ソ連が対日参戦した後、父親が勤める南満州鉄道(満鉄)の社宅にソ連軍兵士が踏み込んできた。窓のブラインドが銃剣で突かれ、揺れた。ソ連兵が玄関にまわったすきに、順子さんははだしで逃げた。
多くの日本人が、郊外の収容所のような場所に避難した。順子さんの家族は一軒家で、複数の家族と共同生活することになった。他の家族と一緒に干し芋を作っていたある日、「ソ連兵が来る」という知らせが入った。
8歳だった順子さんは若い女性たちと床下に隠れた。全員が声はもちろん、せきも出ないように息を殺した。ソ連兵に見つかると、女性は暴行されると言われていたことを後で知った。
床下から兵士の靴が見えた。順子さんは「砂利を踏む『ザクッ、ザクッ』という音が、今も耳に残っています」。兵士が立ち去った後で部屋に戻ると、作りかけだった干し芋はすべてなくなっていた。
満鉄で物資調達を担当する部署の幹部だった父親は避難後のある日、中国人に連行されていった。その後の状況を知らせてくれる人がおり、「きょう処刑された人の中に、お父さんは入っていなかった」と教えてくれた。
きょうは助かっても、あすは殺されるかもしれない。毎日、恐怖にさらされた母親の心情を、大人になってから考えると心が痛んだ。
しばらくして、父親は家族の元に戻ってきた。水道のホースでたたかれたという背中が、みみず腫れになっていた。
ウクライナ侵攻が始まって間もない頃のテレビのニュースだった。岩見沢市の梅田早苗さん(85)は、青いコートを着た7、8歳くらいの少女が、カメラに不安そうな視線を向けている場面を見た。
77年前の自分と同じくらいの年齢だった。両親と妹は豊原(ユジノサハリンスク)に住み、早苗さんと兄は近郊の小沼(ノボアレクサンドロフスク)で祖父母と暮らしていた。
少女を見て以後、樺太(サハリン)での記憶がよみがえるようになった。45年8月22日の豊原空襲で、大勢の大人が通りに出て「豊原の方だぞ」と騒いでいたこと。空襲を受けて焼け野原になった豊原で、両親らが住んでいた家の水道管から水がポタポタと落ちていたこと。日本人男性がソ連兵に腕時計を取られ、畑でソ連兵が野菜を生で食べていたこと―。そんな場面の断片が、脳裏に浮かぶ。
これまで戦争や引き揚げについて家族と話すことはなかった。電話などで妹に思い出したことを話すと、「なぜ急に樺太の話をするの?」と驚かれた。
なぜなのかは、自分でも分からない。ただ、かつての自分と重なったあの女の子のことがずっと気になっている。「彼女は今、どこにいるんでしょうか」(井上雄一が担当し、4回連載します)
樺太で撮影した写真を手に「ウクライナのニュースを見た後、樺太でのことを思い出すようになったんです」と話す梅田早苗さん=岩見沢市
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