太平洋戦争で日本が降伏した1945年(昭和20年)8月の時点で、海外にいた日本人は約660万人とされる。当時、国内の人口は約7200万人で、国民の約1割に当たる人数だった。その多くが暴力や飢餓にさらされ、過酷な引き揚げを経験した。(北海道新聞2022/6/20)
厚生省(現厚生労働省)が78年に発行した「引揚げと援護三十年の歩み」によると、約660万人のうち約半数の軍人・軍属は、無条件降伏を求められたポツダム宣言の「日本国軍隊は(略)各自の家庭に復帰」との条項に従い、帰国することになった。一方、約300万人以上の民間人の引き揚げに関する文言はなかった。
政府は当初、海外から多くの人が帰国すると、国内の食料不足が深刻化することなどを懸念。民間人はできる限り、現地にとどまらせる方針を取った。
しかし、敗戦後の混乱と治安の急激な悪化で、現地で生活を続けることは危険が大きく、引き揚げが急務となる。日本は連合国軍総司令部(GHQ)に占領されていたため、引き揚げ事業は占領政策の一環として、GHQの管理下で行われた。
GHQは日本政府に対し、軍艦船や民間の商船を使って引き揚げ者の輸送を行うよう指令した。日本の船だけで海外在住者を帰国させるには、数年かかることが見込まれた。
政府はGHQに協力を求め、米国から輸送船や病院船など約200隻の貸与を受けた。終戦翌年の46年末までに正規の引き揚げ手続きを経て、軍人・軍属と民間人合わせて約500万人が帰国できた。
旧ソ連や中国共産党が支配する地域の帰国は遅れた。約40万人が暮らしていた樺太(サハリン)では45年8月9日のソ連の対日参戦後、旧樺太庁が高齢者や女性、子どもらを北海道に緊急疎開させ、約7万6千人が稚内や小樽に着いた。
2週間後の23日、ソ連軍はこの疎開を禁止。46年12月、米ソの協定によって引き揚げは再開され、49年までに約29万人が函館に上陸した。再開前もソ連軍の監視の目をかいくぐり、小舟で北海道に向けて樺太を脱出する人は後を絶たなかったという。
開拓団として多くの日本人が入植していた旧満州(現中国東北地方)では、ソ連軍侵攻後に略奪や女性への暴行が相次いだ。飢餓や病気による死者も相次ぎ「進退きわまり、集団自決をするなど悲惨な事件も発生した」(「引揚げと援護三十年の歩み」)。日本政府はGHQに日本人の保護を要請したが、GHQはソ連政府に日本側の要請を伝えることしかできなかった。
今年3月に87歳で亡くなった俳優の宝田明さんは、2015年の北海道新聞のインタビューで、終戦時に住んでいたハルビンで日本人女性が昼間に兵士2人に暴行を受けた状況を証言した。
「(女性は)泣き叫んでいたが、兵士は動物を扱うように足をつかんでひきずっていった。小学5年だったが、その光景のショックは今でもぬぐえない」
ソ連軍は46年春に満州から撤退。中国の国民党政府は日本人を帰国させる態勢を整え、米軍艦船を使った引き揚げが本格化した。その後、中国の内戦や共産党政府との交渉が難航するなどして何度も中断し、最後の集団引き揚げは終戦から13年後の58年7月だった。
満州や樺太などから約57万5千人の日本兵らがソ連に連行され、鉄道や道路建設などに使役させられたシベリア抑留では、56年に最後の約千人が帰国した。抑留中に飢えや寒さ、重労働で約5万5千人が亡くなったとされる。
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