1945年(昭和20年)、ソ連軍が国後島に上陸した9月1日からほどないある日、泊村にあった松崎紀子さん(81)=標津町薫別=の家の庭に、1人のソ連兵が馬で入って来た。「肩に鉄砲を下げていた。母は急いでトイレに隠れました」…(北海道新聞根室版2022/8/31)
松崎さんは父の佐藤久治さん、母、6人のきょうだいと暮らしていた。「私たちは父の後ろに集まりました」。兵士はリュックサックから何かを差し出した。「コンペイトーとビスケット。恐怖心が幾分薄れた」
父は漁船の船頭で、家も広かった。そこに数日後、ソ連兵の4家族が住み着いた。「星がいくつもある階級章を付けた人が床の間の部屋。他の家族は別の部屋と物置に入った」
その日から1年近くの間だろうか、わが家だった建物の隅が居場所となった。「自分の家なのに台所にも、トイレに行くのも気後れした」。松崎さんが兵士からひどい目に遭わされることはなかったが父はサケ漁を強制されたと聞く。
一家はその後、樺太を経て函館に入り、羅臼に落ち着いた。松崎さんは結婚して標津に住み、今の家からは薫別漁港越しに島が見える。「戦争がなかったら、どんな生活だっただろう」と考える。
父は一度、墓参で国後の土を踏んだが、家があった場所ではロシア人が生活。墓も傷み、昔とは様相が変わっていたという。父から「もう行かない」と告げられた。松崎さんも島に渡ることはないと思っている。
ロシア軍のウクライナ侵攻から半年。「ニュースで子供の姿を見ると、弟を背負って歩いた引き揚げを思い出す」と松崎さん。故郷を失う子供は増えないでほしい。終戦77年、それが今の願いだ。(田中華蓮)
コメント