羅臼町の飯塚幹雄さん(84)が生まれ育ったのは、国後島東岸、300人が暮らしたという瀬石地区だ。故郷への思いを問うとこんな答えが返ってきた。「墓参もビザなし交流にも参加したことがない。瀬石に立ち寄れるなら、行きたいけれどね」(北海道新聞根室版2022/9/10)
瀬石にはロシア軍施設があるとされ、ビザなし渡航での立ち入りが幾度も拒まれた経緯がある。「地震で津波にのまれたと聞いたこともある。跡形もないかもしれないね」。ロシア政府は今月5日、ビザなし交流と自由訪問の破棄を発表した。抱いてきた返還の夢も交流再開も、ますます遠のいてしまった。
7歳だった1945年9月、ソ連軍の巨大な船がやってきた。母親の赤い腰巻きを降伏の印として掲げると、三つの部屋と風呂があり「旅館のような立派な家」だった自宅はほどなく接収された。兄弟と母、後に戦地から戻った父の6人家族で2年近く、六畳間2部屋の狭い家で暮らした。
一方で、ソ連兵の子供たちとは仲良くした。「目と髪の色以外は日本の子と同じさ。ダワイ(どうぞ)、スパシーバ(ありがとう)…。二言三言わかれば遊べた。スキーもしたんだよ」
移送先の樺太から函館、母の故郷の根室を経て、羅臼に定住。10代で漁師となり刺し網漁船に乗った。当時操業が認められていた択捉島沖への行き帰りに、何度も臨検を受け「拿捕(だほ)こそされなかったが、いつ帰れるかと不安だった」と振り返る。
新型コロナウイルスの感染拡大前、瀬石地区の元島民で集まった際は、参加者が数えるほどだった。それでも飯塚さんは望みを捨てていない。「島は返してほしいよ。遊びに行きたいし、自由に漁ができるからね」(小野田伝治郎)
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