国後島 地元紙「国境にて」が1947年11月22日の創刊から75周年 週3回、2ページ建てでスタート 発行部数は1,200部だった

 国後島の地元紙「国境にて」が11月22日で、創刊75周年を迎えた。記念すべき創刊号は1947年11月22日に、共産党南クリル地区委員会と地区労働者代表評議会の機関紙として発行された。(kurilnews.ru 2022/11/22)

 1945 年 8 月から 9 月にかけて、サハリンとクリル諸島(北方四島を含む千島列島)を開発するためにソ連のさまざまな地域から入植した。1946 年から 1947 年にかけて、印刷機器が購入され、地区の編集事務所と印刷所が建設された。そして1947年の終わりに、サハリン州の13の地区で、新聞が発行され始めた。北クリル地区のパラムシル島では新聞「クリルの漁師」が印刷され始め、択捉島では新聞「赤い灯台」、そして国後島では「国境にて」–。この新聞は国後島の印刷所で印刷され、国後島色丹島、ゼリョーヌイ島(歯舞群島志発島)にあるすべての集落に配布された。当初、新聞は週に3回、2ページ建てで部数は1200部だった。

 地区センターの下に編集部が建設され、印刷所や倉庫があった。アメリカ製のライノタイプ(自動鋳植機)を含む特別な設備が印刷所に設置された。新聞発行にあたり、印刷の責任者やエンジニアなど本土の専門家が招かれた。島から何人かの若い住民が印刷の訓練を受けるためにユジノサハリンスクに送られた。専門課程を修了した後、彼らは国後島に戻り、印刷所で働き続けた。

 2000年に編集作業はコンピューター機器に切り替えられた。それまでは、タイプセッター、ライノタイパー、プリンター、ペーパーカッターなど様々な専門分野の12人が印刷所で働いていた。編集スタッフには、編集長、印刷所のディレクターでもある事務局長、以前は特派員と呼ばれていた 5 人のスタッフ、校正者、カメラマンが含まれていた。この体制で週 3 回、火曜日、木曜日、土曜日に発行される新聞を制作した。1970 年代後半の発行部数は 3600 部だった。大きな被害を出した1995 年 10 月の地震の後、新聞は週 2 回発行に改められた。

 1960 年代まで、国後島ではどこへ行くにもボートや漁船による海路しかなかった。道路はもっぱら馬車輸送。当時働いていた特派員にとって、遠隔地の農業漁業集団や缶詰工場に取材に行く際の唯一の交通手段だった。その後、アクセスが困難なため、チャチーノ (国後島北部)、セルノボツク(東沸)、小クリル列島のゼリョーヌイ島ゼレノフスク (缶詰工場、水産加工工場、ヨード工場があり、1,600 人の住民が住んでいた)など、多くの村が閉鎖された。

 この75年間で、25人の編集長が交代した。初代編集長は1947年から1951年まで務めたS. S. ラプテフだった。現在、チームのベテランでシニア・コンピューター・タイピングオペレーターであるガリーナ・モストフシュチコワを含む 8 人が編集部で働いている。

1990年に国後島を訪れたエリツィンを取材する新聞「国境にて」のマリア・クゼバノワ副編集長

新聞編集部は多士済々だった

1976年から1982年まで編集長を務めたV. M,ミロンチュク

 

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