抑留体験者らでつくる札幌の市民団体「シベリア抑留体験を語る会札幌」の語り部、神馬(じんば)文男さん(96)=札幌市厚別区=が6日、札幌日大高(北広島市)で自身の過酷な戦争体験を語った。81年前となった太平洋戦争開戦日の8日をあすに控え、神馬さんは「前車の轍(てつ)を踏むな。見えないわだちを探すんだ」と訴え、戦争を繰り返さないために過去を学ぶことの大切さを説いた。
■過去の「轍踏むな」学ぶこと大切
総合学習の時間を活用し、3年生約130人が参加した。新型コロナウイルスの感染拡大で語り部活動は休止しており、神馬さんが講演するのは4年ぶり。
空知管内月形町の農家出身で貧しかった神馬さんは、旧制中学校に行く代わりに資格がもらえる海軍航空隊に15歳で入隊した。「入隊から1週間で戦争が始まってしまった。私は始まるなんて全く考えていませんでした」と振り返る。
終戦の年の1945年8月、朝鮮半島の部隊にいた神馬さんは、搭乗していた偵察機が海に墜落。8時間流され、漂着した海岸から、他の日本人開拓民と一緒に半島を南下した。やっとたどり着いた現在の北朝鮮の港から船に乗ったところ、ロシア極東沿海地方のスーチャン地区に連行され、2年間の抑留生活を送った。「東京に帰してやるとだまされ船に乗った。戦争に負けたら惨めな思いをするんです」と力を込める。
シベリアでは寒さ、飢え、重労働の三重苦が待っていた。炭鉱作業をさせられ「火薬で石炭を爆破し、煙が収まるまでが唯一の休憩時間だった」。死んだ仲間を身ぐるみ剥がして埋葬し、服はロシア人に売った。
そんな収容所暮らしでも、学びに飢えていた神馬さんは、タバコの巻紙に書いてあったロシア語を監視役に尋ねて一つ一つ覚えていった。「時間を無駄にしたくない一心だった。学ぶチャンスはどこにでもある」と呼びかける。
耳を傾ける高校生に「愚かな指導者を選ぶのは、愚かな国民だ。皆さんはたくさん学んで行動し、私と同じ悲惨な人生を歩まないでほしい」と話した。
参加した後藤未結さん(18)はシベリア抑留について教科書では学ばなかったとし「自分が知っている戦争よりもひどい体験をしていたと分かった。貴重な経験が聞けた」。野瀬直也さん(18)は「仲の良かった仲間の死体を穴を掘って埋めるなんて恐ろしいこと。自分は絶対やりたくないと思った」と話した。(内山岳志)
(北海道新聞2022/12/19)
戦後のシベリア抑留中に旧ソ連で死亡した宮城県登米市の旧日本陸軍伍長櫻戸貫夫さんの遺骨が19日、遺族に引き渡された。9月に厚生労働省のDNA鑑定で身元が特定されていた。
19日午後、市内の神社で白い布に包まれた遺骨の入った箱が手渡されると、同席した遺族からはすすり泣く声が漏れた。
受け取った宮司でおいの正道さん(53)は「よくぞ帰ってきてくれた。寂しかったと思う。古里でゆっくり過ごしてほしい」と話した。来春、貫夫さんの両親も眠る墓地に埋葬するという。
遺族らによると、貫夫さんは父を早くに亡くし、出稼ぎで幼い弟妹を養っていた。1941年に召集され、旧満州(中国東北部)にいたところ、ソ連に抑留されたとみられる。47年7月、栄養失調と急性肺炎のため、ハバロフスクで死亡した。26歳だった。
厚労省によると、DNA鑑定は2003年度から実施しており、10月末までに1215人の身元の特定に至っている。
ダモイと少女像
(北海道新聞2022/12/13)
シベリアの強制収容所(ラーゲリ)で過酷な抑留生活を送った日本人たちを描いた映画「ラーゲリより愛を込めて」が、道内でも9日から公開されている。
極寒での重労働とわずかな黒パンに耐える日々。ダモイ(帰国)を果たせずに亡くなった仲間を凍土に埋葬する元日本兵たち。
死と隣り合わせの状況で人は希望を持ち続けることができるのか。作品は生きる意味を問う。
スクリーンを見つめるうち、2カ月前に市立小樽美術館で出合った1枚の木版画が浮かんだ。
小樽出身の版画家河野薫さん(1916~65年)の「金魚」。幼い女の子と赤い金魚が描かれ、あふれる愛情が伝わってきた。
河野さんはシベリアに4年間抑留された。家族と生きて会えるか分からぬ不安な時期を過ごしたが、帰国するとみんな無事で、長女の誕生を初めて知った。
それ以後、独特の「少女像」の連作が生みだされていった。
長女の小林えつさん(77)は「モデルの多くは私です。父にとって心の祈りを具体化したもので平和の象徴だった」と話す。
河野さんは海外でも高く評価され、「日本版画ブームの立役者の一人として活躍した」(市立小樽美術館主幹の星田七重さん)。
だが、抑留体験は生来弱かった体をむしばみ、49歳の若さでこの世を去った。河野さんにとってシベリアとは何だったのか。
晩年は仏像をテーマとし、最後の日本版画協会展出品作「花の仏頭」に結実した。今なお強く引きつけられる。(伴野昭人)
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