北方領土で最も大きい島、「択捉島」。 実は函館と深いつながりがあることをご存じでしょうか? かつて島には函館から多くの人が行き来し、漁業の発展を支えてきました。択捉島が函館の経済圏として「函館市択捉町」とも呼ばれていたほどです。しかし今、その歴史や記憶をどうつないでいくのか、関係者は難しい壁に直面しています。 2月7日は「北方領土の日」。択捉島と函館の歴史をたどり、つながりを残そうとする人たちを取材しました。 ((NHK函館放送局 毛利春香2023/2/8)
択捉島と函館
択捉島と函館の歴史は江戸時代にさかのぼります。
豪商で北洋漁業の先駆者とも言われる高田屋嘉兵衛が函館を拠点として択捉島で漁場を開き、造船や海運業も手がけて安全な航路を発見するなど、函館の経済発展に大きく寄与しました。
島ではサケやマスを中心に漁業がさかんになり、ふ化場もできるほどに。
1923年(大正12年)には、島の漁業振興などを目指して漁業者らでつくる「択捉島水産会」が発足。メンバーの多くは函館とゆかりのある人たちで、本部が択捉島の紗那、出張所は函館に置かれました。
しかし1945年、終戦後の旧ソビエト軍の侵攻を受けて択捉島の事務所が閉鎖。47年には函館の出張所も閉鎖されてしまいます。
こうしたなか、父が択捉島で漁業を営んでいた函館市の駒井惇助さんが資料などを自宅で保存してきました。
駒井惇助さん
駒井さんは択捉島で漁業権を持つ人が多くいる函館で記憶が薄れていくことに危機感を持ち、2014年に函館市内に水産会の事務所を設けます。
水産会は択捉島で漁業権を持っていた人の家族、元島民の2世や3世の人たちでつくられていて、駒井さんは講演会や展示会などを行うなど会の中心人物として活動してきました。
活動が危機に 継承者は
しかし、去年2月、こうした活動を継続していけるか心配される時が訪れます。
駒井さんが88歳で他界したのです。
駒井さんが残そうとしてきた函館と択捉の歴史と記憶を、どう引き継ぐのか。択捉島水産会の今後が話し合われるなかで、声がかかったのが函館大学の准教授、安木新一郎さんでした。
安木さんの専門はロシア経済で、駒井さんのもとを月1回ほどのペースで訪れて聞き取り調査をしていました。
安木さんは駒井さんの資料と思いを引き継ぎ、去年7月に大学内に事務所を設けることにしました。
「函館と択捉島のつながりの強さというのは、文献や統計資料だけではなかなかわからない。漁業権を持っている、漁業に関わってきた人じゃないと知り得ないことを駒井さんから教えていただいたのはとても印象に残っています。また、函館に択捉島水産会の事務所があるとことが重要だと思っています」
漁業権とつながりを守る
択捉島水産会の現在の会員数はおよそ50人で、大きく2つの目的があります。
1つは「漁業権の存在を国に認めてもらうこと」です。
日本政府は択捉島を含む北方四島は日本の固有の領土だとしていますが、漁業権についてはソ連侵攻や実効支配のなかで消滅したとしています。
これに対し安木さんは「日本の領土なのにも関わらず漁業権が消滅するというのは筋が通っていない」などとしていて、漁業権の存続を国に訴えていく考えです。
2つ目は、函館と択捉島の記憶を残して伝え、つながりを維持していくことです。
そのために安木さんは、経済的なつながりの重要性を指摘しています。
戦前は漁業を中心に両地域で経済活動が盛んだったのに、突然断ち切られてしまった。その後、特に最近ではサケやマスの漁獲量も減少。水産加工も盛んな函館では経済的な影響が大きいにも関わらず、こうした発想を持つ人さえ減ってきているのではないかと話します。
「経済的なつながりが断ち切られれば関心が薄れるのは当然のこと。調査や研究を進めて今後は今いるロシアの島民の人たちとどう交流し、経済関係をどう結んでいくのかにつなげていきたい。いま択捉島に住んでいる人を排除するのは現実的ではないので、理想としては共に生きていける島になったらいいと思っています」
ロシアのウクライナ侵攻の影響などで活動が制限され、交流や情報収集も難しくなっている今だからこそ、少しでも多くの人の関心を高めて記憶を継承していきたいとしています。
安木新一郎さん
「情報や資料を集めながら、択捉島と函館について広く知ってもらえるよう講演会を開いたり情報発信をしたりしていきます。函館と択捉島の切っても切れない歴史を語り継いでいきたい。水産会が昭和12年に出版した択捉島の水産史の続きもつくっていきたいですね」
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