択捉島の地元紙「赤い灯台」日曜日版のコラムでは、クリル郷土博物館との共同プロジェクト「博物館の秘密–展示品の歴史」を連載している。今回は「サロメ・ネリス」を偲んで–。クリリスク(紗那)の郷土博物館に25㎝×40㎝のブロンズ製のプレートが収蔵されている。4つの角に固定用の穴がある。リリア・パリィ館長は、最初それがどのようなプレートで、なぜ博物館に保管されているのか理解していなかった。プレートには「蒸気船サロメ・ネリスの竜骨から取った真ちゅう製のプレート」と書かれ、ポーランド語で船の建造日時と場所が彫られていた。–「Gdansk Shipyard No. B 31/53 1958」。この船は、リトアニアの有名な詩人サロメーヤ・ネリスにちなんで命名され、主に木材の輸送を目的として造られたが、当初は石炭の運搬に使われた。1980 年、択捉島キトバヤ湾(内岡湾)で座礁し、船はそのまま打ち捨てられた。クリル地区の住民は、ほぼ半世紀前の嵐の結果として木材輸送船が放棄されたという話を記憶している。(事故の瞬間を見た人はごくわずかだった) 2000 年代半ばまで、キトヴイ港に到着した人は誰でも、船名とカモメが羽を休める錆びた船体を見ることができた。何年もの間、この金属の塊は択捉島の悲しいランドマークになった。共産主義者も、彼らにとって代わった民主主義者も、それを取り除くことができなかったからだ。港に桟橋を建設することになった時、彼らは船を撤去しないことに決めた。甲板の上部構造と内部構造が解体され、船体は石とコンクリートで埋められた。その結果として、沿岸の桟橋、つまり 6 番目の桟橋が出来た。船体が桟橋本体に確実に入るようにするために、多くの費用と労力が費やされた。「ギドロストロイ」のスペシャリストは、「桟橋を造成した人々は、すべてのスキルと創意工夫を示さなければならなかった」と振り返る。「サロメ・ネリス」は永遠に択捉島に残ったが、それはコンクリートの石棺の中に閉じ込められた。(択捉島の地元紙「赤い灯台」テレグラム・チャンネル2023/2/18)
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