中沢松男さん(84)=洞爺湖町 元国後島民、父はシベリア抑留中に病死 島脱出 家族離ればなれ<戦後78年 家族の歩み>㊦ 

 「当時の苦労は言葉にできない。なぜ同じことが繰り返されているのか」。国後島近布内(ちかっぷない)で生まれた中沢松男さん(84)=洞爺湖町在住=は、自らの平和への思いに反比例するように悪化するロシアのウクライナ侵攻を見る度、憤りを覚える。自身もソ連軍の進駐で、家族も住む場所も、当たり前の日常も奪われた。(北海道新聞ウエブ版2023/8/16)

 松男さんの父武男さんはコンブやサケなどの網元で面倒見が良く、松男さんは、武男さんを頼りにする家族や親戚ら十数人と生活していた。自宅の倉庫には、米や砂糖などの食料が山積みで、生活に苦労することはなかったという。

 しかし、ソ連軍が1945年(昭和20年)8月28日~9月5日に国後、択捉両島など北方領土を占領、6歳だった松男さんの生活は一変した。不安や恐怖から同年11月、松男さんら家族は何人かずつに分かれて根室への脱出を試みることになった。松男さんは、母や一つ上の姉らと小舟に乗り、冷たい荒波の中、必死に沖を目指してこいだ。

 松男さん一行は命からがらに根室へたどり着いたが、家族全員での脱出はかなわなかった。父も別の舟でいったん脱出できたが、祖父母と当時3歳だった妹は混乱の中で逃げ遅れ、島に取り残されてしまった。

 それを知った父は迎えに戻ったが、在郷軍人分会長や部落会長を務め地域を統率する立場であったためか、ソ連軍に捕まりスパイ容疑をかけられてシベリアに抑留された。

 松男さんは、島を追われた後の生活について、今でも語ることにためらいがある。島に残された祖父母と妹は日本に帰るまで2年かかり、祖父は北海道に向かう引き揚げ船の中で病気で帰らぬ人になった。根室に渡った松男さんらも全財産を失ったため生活が難しくなり、家族は離ればなれにならざるをえなかった。

 松男さんは姉と二人で、根室や釧路の親戚宅を転々とした。職を求めて武男さんの兄弟がいる室蘭に行った母と再会できたのは約3年後だった。「私たちだけでなく、戦後はどの家族も生きていくので精いっぱい。その時のひもじい思いは忘れることはできない」

 終戦から6年たったころ、武男さんが抑留先で病死したという知らせが届いた。帰りを待ちわびていた家族は悲しみに暮れた。松男さんは「父は私をとてもかわいがってくれた。漁師の後は海産物商を開業するのが夢だった父は、私を商売人にしたかったよう。一緒に店をやりたかったのかな」と、遠い目で語る。

 松男さんは2003年、惜しむ間もなく追われた島を再び目にしようと、北方四島の自由訪問に参加し、58年ぶりに故郷の地を踏みしめた。「港に入った瞬間、島での生活を思い出し、懐かしさで涙が出た」と振り返る。

 今、ロシアのウクライナ侵攻を報じるニュースを毎日のように目にし、家族や故郷を奪われたウクライナの戦禍に自身の経験を重ねる。「戦争や、そこに巻き込まれることの悲惨さを一人一人がしっかりと理解しなければいけない。歴史を学ばなければ、同じことが繰り返される」(高木乃梨子) 

<ことば>北方領土    国後島択捉島歯舞群島色丹島北方四島の総称。1945年8~9月に旧ソ連軍が侵攻し占領した。日本は「固有の領土」として返還を求めてきた。終戦時に北方四島から引き揚げた元島民は1万7291人いたが、今年3月末に3割まで減り、平均年齢は87.5歳となった。

松男さんも参加した、北方四島の元島民が居住地跡を視察する「自由訪問」で、根室を出港し国後島に向かう訪問団=2003年7月4日

松男さんが2003年の自由訪問で撮影した故郷の国後島近布内の風景。額に入れて大切にしている

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