ソ連による北方四島侵攻図の「いろいろ」

 今年も8月28日に近づいてきた。78年前のこの日、ソ連軍は米国から貸与された掃海艇2隻で北方領土択捉島・留別に侵攻した日だ。ソ連軍による北方四島侵攻図は書籍でもネット上でもよく見られるが、微妙に違っていて興味深い。

上陸地点が「留別」ではなく「単冠湾」に ソ連の戦闘地図

 ソ連軍の戦闘地図としてよく引用される「1945 年 8 月 9 日から 9 月 2 日までの極東におけるソ連軍の戦闘作戦の地図(ソビエト連邦大祖国戦争の歴史1941-1945:6巻、1963年)」では、日時こそ8月28日だが、択捉島の上陸地点は留別ではなく、太平洋側の単冠湾になっている。最近知ったのだが、海軍中尉として色丹島の上陸作戦に参加したイーゴリ・スミルノフが書いた「海軍のクリル諸島(千島列島)南部への上陸」の中に、択捉島・留別の上陸作戦に参加した掃海艇の1隻が、その後に単冠湾に移動したという記述があった。ただし、日時は8月31日である。

 「択捉島の日本軍守備隊の降伏を受けてソ連太平洋艦隊司令官I.S.ユマシェフは、択捉島上陸作戦を指揮していたブルンシティン海軍中佐に対し、1個中隊を掃海艇1隻に乗船させ、国後島に向かうよう命じた。掃海艇第590が択捉島・留別湾を出発したのは8月31日5時だった。第590は択捉島の太平洋側にある単冠湾に向かい、同日14時間55分に到着した。鹵獲(ろかく)した日本の漁船を使い、V.I. オブシャニコフ大尉が率いる空挺部隊147人を乗船させて、同日20時05分に単冠湾を出航した。第590は国後島・古釜布湾で兵員を上陸させ、必要に応じて火力で支援する任務を帯びていた」

あの矢印はなんだろう 日本外務省「われらの北方領土」2022年版

 択捉島の太平洋側から色丹島方向に延びる矢印(青い線で囲んだ矢印)は何を意味しているのだろう。スミルノフの記述–択捉島・留別に上陸した掃海艇の1隻が単冠湾を経由して国後島・古釜布に向かったことを把握していたのか。それなら矢印は国後島に向いているはずだが、これでは択捉島を占領したソ連軍の部隊が色丹島にやって来たように見える。この矢印は「われらの北方領土」1993年版から登場しているようだが、その前までは千島列島沿いの北から南にもっと長く大きな矢印が2本延びていた。北方四島を占領したのは樺太・大泊から来た部隊だが、当時はカムチャッカ防衛区のソ連軍が北方四島を占領したと考えられていたようだ。問題の矢印はその名残だろうか。内閣官房領土・主権対策企画調整室のウエブサイトでは、矢印がもう1本追加され、ウルップ島方面に延びている。北方領土問題対策協会のサイトでは、この矢印が最も強調され太くて長い。択捉島から色丹島への矢印を入れていなのは労働組合の「連合」と産経新聞たけ。「連合」の地図はソ連側の資料も踏まえたかなり詳細なもので、択捉島・留別から国後島・古釜布への矢印と、古釜布から歯舞群島への矢印まで入れている。

外務省「われらの北方領土」(1992年版まで)

内閣官房領土・主権対策企画調整室

北方領土問題対策協会

労働組合「連合」

産経新聞

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