ソ連による占領からちょうど1年後、千島・南樺太で発行されていた邦字新聞「新生命」1946年9月3日付紙面に「平和甦る千島 経済、文化生活逐日(ちくじつ)繁栄」と題した記事が掲載されていた。添えられた写真には、択捉島・紗万部にあった缶詰工場に鱒を水揚げする日本人島民が写っている。戦前、択捉漁業の主力工場だったが、占領後はソ連が経営し日本人島民が働かされていた。
邦字新聞「新生命」1946年9月3日付
遠く北東太平洋に、オホーツク海の果てに千島列島が長い鎖のように延びている。同列島の日本侵略者達を放逐した後に、この厳しいが豊かな島々の経済的発展と文化的繁栄を配慮する真実の所有主がやって来たのである。
今年の春には国後島の漁夫達は蟹漁に成功した。代々の極東の漁夫グバチェンコの自動艇は、その班と共に岸から遠く出動し、グバチェンコと他の自動艇の班長ユシアコフは時々二千尾以上の蟹を網から引き上げた。フルカマップ部落の蟹工場は、既に約百万缶の蟹缶詰を生産した。今後は鮭漁である。
国後島は千島列島最南部の島である。年中葉を失わぬ殆三メートルに達する笹叢(ささむら)は家畜のためのよい飼料である。サハリンから此処に到来した動物飼養家は、牧場を研究している。同島では良種の馬匹飼育経営を組織することが予想され、このため第一回分として千五百頭の牝馬が集められた。同島の気候によく耐える強いペルシュロン馬が飼育されるであろう。
国後島には多くの落葉松、桜、白樺がある。これはみな間もなくここで展開される魚を入れる樽や建築の立派な材料になる。今年は約二百戸の住宅建築、十余個の大きな●●室(※判読できず)、非自動漁船隊の舟を作るための造船所をつくることが企画された。国後地区の中心であるフルカマップ部落では倶楽部、浴場、幼稚園、住宅、託児所、新しい食堂、商店の建設を準備しつつある。またラジオ化の事業が行われており、間もなく同島のソ連人達はモスクワ放送を聴くことが出来るようになる。
小学校が開かれた。教師サリコヴァとスミルノヴァの言葉によれば、三十名の子供は–最初のここの児童—全く成功的に学年を終了した。九月にはここに四つの小学校が始められるであろう。何故ならば同島の住民は急速に増加しているからである。
製材工場と漁業工場が仕事を行っている。フルカマップから七キロの硫黄温泉のあるところに小さな療養所が建てられた。五月に開かれた定期航路船「オラ」号は国後島へ数十本のニュース映画と芸術映画を届けた。地方民の小さい家の傍らには畝(うね)が黒くなっている。水分が十分にあり、野菜も常によく成長している。隣の大きな択捉島には最も豊富に硫黄がある。間もなくここに大陸から船でトラクターと強力な扼播機が届けられる。山では硫黄の採掘が始められており、選礦工場はサハリンの製紙コンビナートの必要な原料を確保するであろう。地質学者は秋と冬に同島の天然資源を調査した。そして多くの有用鉱物が発見された。
【写真は千島のシヤマンベ缶詰工場にいま漁獲されたばかりの新鮮な鱒がどっと揚陸された。工場は活発に生産を続けている】
邦字新聞「新生命」とは
『新生命』はソビエト連邦極東軍管区によりユジノサハリンスク(1946年に豊原から改名)で、唯一存続していた日本語日刊紙『樺太新聞』がソ連当局により閉鎖された後、1946年に発刊された。新聞には「日本人住民への赤軍の新聞」と記載されている。同紙はソビエト当局からの情報を南樺太と千島列島として知られる南サハリンとクリル列島の日本人住民に伝える役割を果たした。地元の情報、タス通信配信のニュース、日本共産党関連ニュース、ソ連共産党紙『プラウダ』からの論説の翻訳を掲載した。ソビエト連邦極東軍管区は『新生命』を厳しく検閲した。(Hoover Institution邦字新聞デジタル・コレクションより)
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