今年1月に焼失してしまった択捉島の紗那国民学校で、ソ連軍侵攻時に校長を務めていた青田武貴(たけき)さん(1990年に88歳で死去)が書き残した日誌などの資料を「北方領土遺産」として記録にとどめておきたいと思う。北海道根室振興局時代に取り組んだ「北方領土遺産発掘・継承事業」が縁で、数年前にご遺族からデータの提供を受けていたものだ。
最初に掲載する日誌は、択捉島の住民に引揚命令が出た1947年(昭和22年)9月2日から始まる。樺太・真岡経由で函館への引揚船に乗船する直前の9月18日まで、日々の出来事が記されている。
日誌をはじめとした資料は、ソ連の学校で使用したと思われる「学習ノート」に書かれている。表表紙に「ノート」とあり、「サハリン紙製品販売本部注文による」と表記されている。裏表紙には長さや面積、重さの単位や「九九」が掲載されている。「ユジノサハリンスク市マカロフ提督通り 印刷所赤旗」で印刷されたこと、「25ペイカ 指定価格を超過する価格での販売は罪に問われる」との注意書きもある。
択捉島の学校でソ連の児童が使っていたものを所持していたのか、引き揚げのため樺太・真岡に移送された後にソ連側から入手、あるいは配布されたものなのかは分からない。
【青田武貴校長が書き残した資料】
「引揚日誌」
「ソ連軍進駐以来二ヶ年の感想」の下書き、清書
「紗那国民学校経過報告書」
・校舎及校具状況
・授業に関する件
・引揚に関する件
・年萌・菊地校長に関する件
・教科書に関する件
「択捉島10校在籍児童数内訳」
「ソーフィン隊駐屯と村政」など
なお、青田校長は引き揚げた際、上記資料のほかに、経文1冊の行間に紗那国民学校に通っていた児童の学籍簿などを書き写して持ち帰っていた。
『引揚日誌』
9月2日(※1947年=昭和22年) ※判読できない部分は●としている
数日前より噂あった第一次引揚発表。午前八時頃より浜方面より戸別に子供の多いもの、病人等指名さる。学校の関係ありたるも早くより選定され居りたるも江田君(※紗那の江田照雄さんか)が急に変更して病人の患病(父)引揚につき添い必要ありとのことに付、自分は居残ることとなる。引揚者は非常に喜び荷造り開始す。
9月3日
前日同様。
9月4日
引揚者は川向うに収容することとなり手伝い移動す。橘営林区署長(※紗那の橘和助さん)と二人になり淋し。
午後八時、安東君(※紗那の安東正さんか)を尋ね心境を話したところ彼感激しイワノフ氏を訪し、帰国を願うからと出ていく。三十分ほどして帰る。夫人がすっかり同情し、イ氏(※イワノフ氏のこと)に帰国さす様いうと話していた由。安東氏は校長(※青田校長のこと)帰国しても学校経営は万事引き受けて続行すると申し出た由。
九時三十分帰宅した所、葛西さんが来る。新保先生(※トシルリの教員・新保博治さんか)が帰国不可能となったが真かと●●ライスポコム(※島を統治したソ連側の組織の一つであろう。救済委員会のようなものだろうか)にサドニコーワを尋ねて確かめたる所、不可とのこと。何のために不可能となりたるかと終夜不安増大す。
9月5日
午前六時半、一人寂しく食事をなす。ヤン氏(※ソ連の教育関係者)来る。ランプ無いかとのこと。一組与う。新保氏のこと話した所、マイヨル・イワノフ(※イワノフ少佐)が帰国を取り消した由。
七時半、イワノフを尋ねて新保氏のことを尋ねた所、知らないと。
サドニコーワを二人で訪問した所、青田は帰国することになったからすぐ用意する様にと話された時は全くうれしかった。すぐ用意にとりかかる。橘さんも岡中さんも帰ることになったので三人手を取り合わぬばかりの喜び。同日万幸、後のことを安東さんに依頼して五時収容所に入る。
9月6日
内岡台に馬草積みに使役のため出動す。
夜になり雨となる。
9月7日
終日雨。作業なし。紗那川大水、向こう側までの交通不可能。大橋を通らねばならぬ様になる。
9月8日
朝から晴れる。作業なし。
9月9日
九時乗船命令あり。(※択捉島から樺太・真岡行の船)十時頃船入港す。一番から順次乗船開始。二四〇番の自分は午後一時四十分乗船す。三六〇〇頓とか。船倉の最下に入る。混乱甚だし。
七時過ぎ留別に入港、ここで約五〇〇名の乗船故、相当時間を要すると思わる。今晩中に出航は不可能と思わる。
9月10日
午前十時頃になり乗船終わる。すぐ出港。神居古丹に向う。
六時頃より乗船開始す。一番で菊地様乗船、船倉に案内す。
(別頁の関連記述)
9日乗船途中、留別、神居古丹にて疎開者を乗せ11日午前4時頃神居古丹出航。途中一時雨模様となるも至極平穏。
9月11日
午前四時過ぎ同港出港す。油なぎ航海平穏なり。
9月12日
午前十時真岡港に入港後に下船。荷揚げ作業に日暮れまでかかる。収容所入る(第二校)。更に収容所に自動車にて荷全部運搬す。
(別頁の関連記述)
12日真岡港入港十時頃上陸す。直ちに荷役、女子供は手荷物持参で2km位の高台にある第二国民学校の仮収容所に入る。ここでは入浴をなし、衣服に消毒した由。
自分たちは作業のため8時頃手荷物を持って後を追う。途中、アメ玉、キュウリ、キビ等タバコ等の売り子あり。どれも100ルーブル単位で、アメ玉20ケ、キュウリ、キビ三本。
タバコは40ルーブル、20ルーブル、10ルーブル位、餅なども売っていた。
又、波止場で日本人来り、ルーブル紙幣は全部日本には持参不可能につき品物ならば何でも持参可能につき買ってやるからと金を巻き上げる等ひどいものだ。
12日は一度仮収容所に入り一休みして、荷物の運搬に13日未明まで自動車を利用した。この時も金次第で一回200ルーブルから段段高くなり、他部隊と競争の結果100ルーブル位になりたり。
9月13日
八時よりプロポスリ検査。
同港市民の中より使役に出ている人々の話では相当検査は厳重なる由と。十時より乗船順に荷の内容検査。
終戦二年余の間、奉安し奉りたる御真影と勅語、万一彼等の手にてけがされしことあってはと熟慮の上、江田君と協議の上最後の奉拝後、極秘裏に奉焼し奉る。校庭にて。
三時荷物を検査、本収容所に入る。第六大隊第二班に編入さる。
(別頁の関連記述)
13日仮収容所にて所持品の検閲。ルーブル紙幣は全部没収。その他は異常なければ持参可。すぐ裏の高女校舎の本収容所に13日中に入った。
9月14日
日曜日、検査なし。
紗那と内岡は本所(※本収容所のことか)にて昼頃より雨降りの準備として幕舎の囲いに下水を掘る等多忙なり。
一時暴風雨となるも約一時間位にて止む。後細雨となる。
明十五日出帆予定の三五〇〇名の離故●●●(※ソ連に対する感謝の集いのことか)あり、各地の代表演説に歌唱等にてにぎやかなり。
紗那班も更に班の編成替あり。自分は第二班より第四班になる由なり。児童は嬉しくて他の学校児童と一緒になり遊ぶ。
幕舎生活になれないために雨のため更に雑然となり出入りに困難となる。統制のない団体となる。
9月15日
紗那役場、崎野氏(※崎野勘吉さんか)より次の通達あり。疎開船上より無電にて支庁に報告あること。
紗那校職員児童101引揚。
9月16日
未明雨激しくなり幕舎内に地面より浸水。暗がりの中にて排水作業。八時過ぎ第四大隊宿舎に移動す。
児童より、本日、倉庫監視のため初六(※国民学校初等科6年のことか)以上の男使役に出動す。十時、十二時巡視す。
雨の中びしょぬれになり、使役中感激の涙あるのみ。大人にてはこうまで真面目には出来ないと思わる。大人の中には泥靴で荷物に上がるものあり。止めるもきかず。どうせよごれるもの故よかろうと全く話にならん。
9月17日
昨日来の雨十時頃より晴出す。今日も各種作業に出動す。自分は屋外作業免除されある故比較的楽。
十立場●●しあり。
特別に偉がり大声にていかにも自分●●●の如きものと見苦しきこと甚だし。本所内の空気は誠に気ぜわしい。落ち着きのないものなり。
午後一時三十分より第三回講演会あり。今日は屋外なり。
夕食後、次の如き乗船切符交付さる。
乗船券 名簿№37
乗船 №37 (家長の姓・名) アオタ タケキ
同乗 № (家族)
署名
第二大隊、寺氏を訪問したところ内保(※択捉島の内保)の面々多数に面会で来た。又、蘂取班も同部隊に居た。
菊地爺と函館市高森町一七の二 佐藤吉夫氏に帰国を通知する件依頼あり。
9月18日
ソ連当局より日本の風俗習慣につき本を編纂するため菊地、張間(※択捉島の留別国民学校長の張間文桜さん)と三人で
家族制度及社会制度
1階級及社会の構成
2結婚及家庭(家族)
3(※空白)
4(※空白)
自分は➁を指定されて原稿を作る。
又、ソ連上陸当時より現在に及ぶ感想文を紗那を代表して団長である柏谷氏が発表する原稿の作成を依頼さる。
(別頁の関連記述)
昨日17日愈々乗船切符交付あり。20日乗船することになる。
(別頁の関連記述)
仮・本(※仮収容所・本収容所)ともにパンとバター、スープ、砂糖の配給あり(兵隊さんが炊事)。米は持参すれば自由に炊事可能につき10日分位予定して来ること。
仮収容所内にては闇売りが来るが本所には来たらず。又、ルーブルがないので購入不能。
荷物は100(kg)でもそれ以上でも可能です。出来るだけ持って来なさい。
日本紙幣は1000位まではよいらしいです。
タバコは充分用意すること。
冬支度も必要。又、仮・本共に使役があるから作業衣も必要。
ここに来て驚いたこと。本島(※樺太のこと)にはまだまだ疎開しないのが多いこと。半数位未だいる由。現在10000位船待中。15日に二隻来て3000位乗船。20日には六、三大隊3000位乗船。今の所紗那市街、留別の全部と別飛、豊浜の一部が六大隊です。
他は二十五●とか。然し乗船してみなければ判らぬ。又一日も早く帰国を待っています。
18日午後三時
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