択捉島『紗那国民学校経過報告書』ソ連占領下で何が行われたか

今年1月に焼失した択捉島・紗那国民学校の最後の校長を務めた青田武貴さん(故人)は、1945年8月15日の「終戦の日」から、ソ連軍占領下での国民学校の出来事を「紗那国民学校経過報告」として記録していた。

御真影奉護に関する件(勅語詔書)

 昭和二十年八月十五日十五時三十分現地部隊長より、明日十六日午後四時より戦闘行為に入るを予想さるに付き、御真影勅語その他一切の公文書は即時焼却すべしとの命令あり。●●支庁長殿に対し御真影奉護に関し最後の指示を乞う旨電信す。同十七日内政部長御真影奉護に関しては支庁長より何分の指示ある筈。それまでは貴職に於いて厳重奉護すべしの電信ありたり。同十八日、現地部隊長より状況険悪なり。婦女子は●●避難準備をなし待機すべしの命令ありたる。故直ちに校下父兄一般の参集を求め、御真影最後の奉拝式を挙行す。

 同十八日、視学殿より御真影奉護に関しては村長と協議の上奉護すべしの電信あり。又更に留別支庁出張所より二十八日入港予定の海運丸にて御真影勅語、支庁に奉遷する様準備せよと電話ありたるも同船は国後沖にて沈没の報に接し空虚しくなる。二十八日、ソ連軍留別浜に上陸したるため奉安殿に奉護不可能となり。校長住宅内に仮奉安所を設置し奉護す。其の後御真影を提出せよの命ありたるも既に焼却済と報告したるため数回に及ぶ家探し等ありたるも彼等の目を誤魔化し奉護す。昭和二十二年九月十三日、樺太島真岡仮収容所まで奉護したるも荷の検閲厳重なるため到底奉護不可能な状況なるため職員、役場吏員と協議の上、終戦後七百五十七日の安泰奉護も空虚しく茲に奉焼し御灰を奉持し帰国す。

◉校舎及び校具状況

 一切の公文書は八月十六日現地部隊長の命令により焼却す。学籍簿その他必要文書は新に編纂す。

 昭和二十年十月一日よりソ連本島警務司令官、紗那駐屯となり同四日命令第一号を受領す。これによれば学校は文化機関として●●で引受け、従来の通り父兄の後援により経営することとなり、同十八日、副官ログノフ中尉来校。職員児童と正式に会見し、吾校はソ連学校として日本人児童教育実施することに決定す。

 昭和二十一年一月、日本人教員会を天寧国民学校に会催。ソ連学務課長より校具台帳を転備し児童は地元カメンダン(民政局長)に引き継ぐこととなる。これに於いて全くソ連支配下のもとに経営することとなる。

 昭和二十一年九月一日、二ヶ教室をソ連学校となし、サンリニコーワ校長として赴任。授業をなす。

 昭和二十二年六月二十日、夏季休暇となると共に全校舎を彼等に接収され、新にソ連中学校を併置し、ヤン氏校長として赴任す。

 日本人児童、ソ連児童共に二部制の授業をなすこととせり。

◉授業に関する件

昭和二十年九月一日、第二学期授業を開始す。三学級。

九月十日、江田昭夫助教として採用。四学級となる。

昭和二十一年一月、ソ連の命により新たに富川伸・准訓導を採用(有珠郡伊達校、昨年八月休暇帰省中のもの) 五学級となる。

◉引揚に関する件

待望の第一次引揚は昭和二十二年六月二十八日。

●令、職員 木野治、富川伸、児童十二名 村民八戸、計四十数名なり。

第二次引揚 昭和二十二年九月三日発表。

職員 青田武貴、江田照夫、野々宮美代子及び児童九十八名、村民計四百五十三名に及ぶ。

残留日本人約二百五十数名中児童三十二名あり。

対策としては新たに元測候所長安条正、葛西礼子を採用し二学級編成をなす。又、新沼年萌校長紗那に在留指導することとなる。

◉年萌・新沼校長に関する件

 第一次引揚として年萌部落全員に及ぶも同校長、紗那校長として引揚中止となる。同校長これが対策に紗那民政局に出頭。引揚を懇願せしも許可されず。

 七月四日引揚船出帆と共に家族と別れ紗那に来る。然るに地方教育課長は紗那校長にする意志なり。種々交渉した結果、職員として採用することとなる。これは表面の問題にして実際はゲ・ペ・ウのイワノフ少佐の指示。

◉教科書に関する件

 教科書に関しては昭和二十一年一月、全教科書に対し、ソ連側の検閲あり。皇室に関する記事、戦争に関するもの(新旧共に)、神々に関するもの全部削除し教授をなすこと。●●科等の日本的なるものは教授不許可となりたるも、其の後随意科目となる。

 又、修身、国史、地理は禁止。新に露語、スターリン憲法スターリン伝記を加えるも間もなく外国語となり、露、英の何れかを教授することとなる。尚、当校にては英語を教授することとす。(●は判読不能)

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