ソ連要員1万2,400人を訓練し、149隻の艦船を提供「これほど短期間に、これほど困難な訓練条件の下で、これほど多くの船舶を移送する作戦はこれまでなかった」…プロジェクト・フラ

海軍分遣隊3294「戦争日誌」

添付資料 (1) は、移送されるHULA-2プロジェクトの指揮官報告書である。この報告書は、9 月の戦争日誌に代わるもので1945 年 3 月 19 日の開始以来のこの活動の運営を網羅している。

アラスカ州コールドベイの海軍分遣隊はこの日付で退役し、これ以上日誌は提出されない。               アメリカ海軍司令官W.S.マックスウェル大佐

付属資料(1)  HULA-2報告書

日本の降伏を祝うソ連アメリカの水兵(1945年8月14日)

 

【HULA-2プロジェクト司令官の報告書】

◉任務

 マイルポスト・プログラムの中で最も大きな部分を占めたのはHULA-2プロジェクトだった。米国海軍作戦部長は、訪問乗組員(※コールドベイで訓練を受けるソ連軍の乗組員を指している)に180隻の移送船の訓練を受けさせるよう指示した。PF(哨戒フリゲート) 30 隻、AM (掃海艇)24 隻、YMS (木造の内燃機掃海艇)36 隻、SC(木造の駆潜艇)56 隻、LCI(L)(大型歩兵揚陸艇) 30 隻、YR(工作船)4 隻、および Yタンカー 8 隻が移送される計画だった。1945 年 3 月 24 日の作戦開始に向けて基地(コールド・ベイ)の準備を整え、1945 年 10 月末までにすべての艦艇を訓練して移送することが指示された。大型艦は 45 日、小型艦は 30 日の日程で訓練されることになっていた。

◉任務の目論見書

 米海軍の訓練要員と最初の訪問乗組員の受け入れに間に合うよう3月23日までに、アラスカ州コールドベイに陸軍兵舎と関連施設を利用した基地が修復、設立される予定だった。このプロジェクトはアメリカ海軍が主導し、基地司令官は、プロジェクトに参加するすべての人員の指揮官となる。少将が率いる訪問側スタッフは訪問乗組員を監督し、訓練と補給期間の終了後、訪問上級将校は基地の司令官と一緒に各艦船を検査する。兵器、機械、設備、艤装の完全性を検査した後、上級将校の署名を得ることで引き渡しが行われる。

 すべての船舶は、移送のためにコールドベイに来る前に、米国西海岸の港で修理および艤装が行われることになっていた。コールドベイでは、スペアパーツと消耗品の補充のみが必要とされた。西海岸の司令官は、西海岸の港を出港する前に、移送船のすべての兵器、機械、設備が良好に運用可能な状態にあることと、許可された機器のみが装備され、必要な供給品と予備部品がすべて船内に搭載されていることを保証する責任があった。最終チェックは-訪問側代表者が同意することになっていた。海軍作戦副部長は、許可された兵器、無線、レーダー、ソナー機器の詳細な記述、完全な許可リスト、小冊子など、レンドリースに基づく譲渡に必要な指示と書式及び船舶のデータブックを提供することになっていた。

 ほとんどすべての訓練は移送される船上で実施されることが予想されていたため、地上での訓練は対潜水艦戦および映写機などを使用し視覚補助訓練のみが認可されていた。弾薬は運航訓練中の限られた射撃訓練のために供給されることになっていた。

 コールドベイの修理施設は 2 つの修理ヤードの増設が計画されていた。移送船が移送時に最大許容量に達することを保証するために、十分な物資がコールドベイに輸送されること、そしてスペアパーツは必要に応じて迅速に空輸されることが求められた。

◉訓練の進め方

 HULA-2の指揮官たちが直面した問題は、文字通り前例のないものだった。これほど短期間に、これほど困難な訓練条件の下で、これほど多くの船舶を訓練し移送しようとする作戦はこれまでなかった。可能な限り短期間で訪問乗組員を徹底的に訓練するプログラムを開発するのが指揮官たちの責任だった。軍事的必要性とコールドベイの気象条件の両方から、一刻の猶予も許されなかった。

 当初のプログラムでは、ごくわずかな陸上訓練が必要とされた。しかし、訪問乗組員が船上で作業するための装備の基礎について、徹底的な陸上訓練を提供することが不可欠であることが判明した。訪問乗船者はほぼ全員が経験が浅く、陸上での訓練と艦上での訓練を 30 対 70 の比率で行うことによってのみ船上の死傷者を回避できると考えられていた。

◉基地の状況

マクスウエル大佐(左)とソ連側の責任者ポポフ少将

 司令官は3月19日にコールドベイに到着し、基地の設置を開始した。訓練スタッフの大部分は先にコールドベイに赴いていた。以前の指令では、基地は3月24日に訓練を開始できるよう整備することが示されていた。司令官は直ちに検査を行った結果、設備が全く不十分であり、3月24日までに基地を準備するのは不可能であると判断した。

 最も深刻な困難は、悪天候、人員(特に通訳)の不足、7マイルのエリアに各施設が分散していること、あらゆる設備機器の移動と修復の必要性、そして作業時間が非常に短かったことであったが、この作業は行われなければならなかった。

 3 月 23 日に訪問者の代表が最初に到着したとき、訓練スタッフは彼らのために暫定的な訓練プログラムを準備していた。しかし、代表者(2人の准将と7人の購買委員会役員)は、陸上の訓練施設に失望した。彼らは、隊員の経験が浅いため、基礎に関する徹底的な陸上訓練が不可欠であり、そのような訓練は必然的に指揮官への当初の指示で許可されていたものを大幅に超えるものになるだろうと述べた。

◉初期の進捗状況

  訓練スタッフと訪問スタッフは、AM、YMS、SC 向けの訓練プログラムの作成に向けて昼夜を問わず協力して取り組んだ。基地にはプログラムを準備するための20日間の猶予期間が与えられた。訓練スケジュールは、移送する船の種類ごとに個別に設定され、大型船では 45 日から 30 日に、小型船では 30 日から 24 日に短縮された。

 また、公共事業担当者たちは561 棟の建物の修復、70 棟の建物の移転、および 2 つの消防署、自動車修理工場、映画劇場などの主要施設の建設を指揮した。

◉初期の困難

 3 月末に指揮官が直面した困難は 2 つある。まともな天候の欠如と言語の問題だ。風は常に強く、小型船に多大な損害を与えた。海岸では泥と嵐のため作業が遅れた。通訳者たちは懸命に働いていたが、40人の訪問通訳者(※ソ連側通訳者)のうち資格を持っていたのは6人だけだった。

 訪問乗船者の言語で書かれた訓練用の説明書やパンフレット、翻訳された解説付きのフィルムが不足していた。そして、教室でのデモンストレーションや慣らし運航に必要なレーダーやエンジニアリング機器の模型も足りなかった。衛生状態も非常に悪かった。調理室には衛生設備がまったくなく、シャワー、ランドリー設備は不完全だった。

◉1945年4月の状況

 AM12隻、YMS6隻、SC20隻に乗船する兵員が陸上での訓練を開始するために4月中旬に到着したとき、見通しは1ヶ月前よりもずっと明るくなった。陸上での訓練に必要な装備はアダック、ダッチハーバー、シアトルの司令部が全面的に協力した。訓練教則本が収集・翻訳され、訓練スタッフは海軍作戦部長室から提供された説明を翻訳し、訓練映画フィルムと同期させた。住宅や訓練施設の修復と維持は依然として大きな問題であった。訪問者を受け入れるために建物は継続的に移転され5 つの別々の給水システムと 9 つの発電所が必要だった。そして通訳は依然として決定的に不足していた。4 月中、基地の供給部門局は平均 2,500 人の訪問乗船者、1,000 ~ 1,500 人の訓練職員と、そして 30 ~ 40 隻の船舶に食料を供給するという問題に直面した。

AM (掃海艇)

YMS (木造の内燃機掃海艇)

SC(木造の駆潜艇


◉最初の陸上訓練プログラム

 最初の陸上訓練プログラムでは、士官 220 名と下士官 1,895 名に 96 時間の指導が行われ、AM、YMS、SCでの任務に備えることができた。12 日間のプログラムは 4 月 16 日に始まり、4 月 27 日に終了した。この訓練は、慣らし運航の安全のため、移送される船で使用する機器を訪問者に習熟させることを目的としていた。訪問者はレーダーとソナーについてはほとんど何も知らないことが判明したため、この分野の訓練は特に集中的に行われた。訪問乗組員の中には、船全般についてかなり詳しい中核グループが存在していたが、これらのグループでさえ、各タイプの船の特性を理解させるには多くの訓練が必要だった。

 38ある教室には、プロジェクター、チャート、説明書、操作マニュアルなどの訓練補助備品のほか、20mm、40mm、および 50口径3インチ砲の習熟用のデモンストレーション・モデル、エンジニアリング機器の設計図と実物、ミニチュアモデルの掃海装置などが備えられていた。

 AMの指揮官と航海士予定者 18 名に対する訓練は、対潜水艦戦に43 時間、掃海と爆雷攻撃に13 時間、航行に 12 時間を費やした。YMSの航海士予定者は 29 時間の掃海と爆雷攻撃、25 時間の対潜水艦訓練、12 時間の砲撃を行った。このグループのうちAM と YMS の士官は 9 時間の爆雷攻撃と 8 時間の航行訓練、SCの士官は 10 時間の砲術と 9 時間の爆雷攻撃を行った。SC の指揮官 60 名は、対潜水艦訓練で25 時間、砲術 16 時間、船舶建造 14 時間、航法と無線レーダーでそれぞれ 10 時間の教育を受けた。48人の砲術士官は 62 時間を砲術の指導に、20時間を掃海と爆雷の訓練に、8 時間を無線レーダーの訓練に費やした。入隊した1,895人は工学、砲術、無線、レーダー、信号、操舵などの訓練を受けた。

 各部門の陸上訓練プログラムは、訓練補助具によって補完された。最初の陸上訓練プログラムのために、完全に設備の整った 10 の教室が準備された。教室では毎日平均 40 本の訓練映画が上映された。また、訓練補助部門は砲術、ディーゼルエンジン、損傷管理、航法・通信に関する完全な図表を発行した。信号伝達、水陸両用作戦のチャートや戦線のニュース映画、一般向けの映画「なぜ戦うのか」シリーズなども含まれていた。

 このような援助は、深刻な言語の問題を軽減するため、HULA-2プロジェクトのような活動にとって特に重要だった。訓練フィルムは、実際に使用する装置の操作を示す点で特に価値があった。

◉最初の慣らし運航(船上訓練)プログラム

 4 月 27 日に陸上での訓練を終えた 2,100 人の士官および隊員は、教室で得た知識を船上で実践した。5月2日にAM 12隻、YMS 6隻、SC 19隻が参加し、12日間の慣らし運航プログラムが開始された。

 慣らし運航訓練の最初の 3 日間は、訪問者に対して船の操作、兵器、機械・設備のデモンストレーションに費やされた。残り9日間の訓練の目的は(a) 乗組員への訓練を通じて艦船を戦闘準備状態にすること(b)艦船を単独または編隊で操船すること (c)船内のすべての機器の操作を経験することにあった。

 米軍司令官が使用する無線を除き、訓練期間中は無線の沈黙が維持された。訪問乗組員は旗揚げ機と点滅灯のみを使用した。訓練スタッフは、必要なすべての戦術信号を含む特別な旗掲揚コードを作成した。

 訓練完了後、各船舶には、必要なすべての修理を行い、燃料、水、およびその他の許可された貯蔵物を積み込み、文書の類に機密事項が含まれていないことを確認するため数日間の時間が与えられた。船の最終検査の後、すべての譲渡書類が準備され、当局によって署名された後、旗と艦艇の譲渡が行われた。式典は旗艦として指定された艦艇で行われた。

 プログラム全体は、艦船の損傷や人員への死傷を避けるため、すべての演習がゆっくりと詳細な説明を繰り返して実施された。訪問者はアメリカの安全上の注意を無視する傾向があったため、非常に厳重な監督が必要だった。

 訪問乗船員は予想していたよりも経験豊富で、知性があり、協力的だった。訪問乗組員が米国海軍の兵員に要求されるパフォーマンス基準を満たすことは期待されておらず、実際に満たすことはなかったものの比較的よくやった。彼らの砲術はかなり優れていたが、海軍兵器の特殊な問題についてほとんど知識を有していなかった。

◉最初のAMとSCの状況

 最初の陸上訓練プログラムは順調に進み、4月中旬にAMとSCの最初のグループが到着した。6隻のAMは未承認の装備を積んで到着したが、6 隻合計で 2,904 個の品目の不足があった。最初に報告された 13 隻の SC のうち、9 隻は大規模な修理のためにダッチハーバーにすぐに送られた。

◉LCI(L)の訓練

 30 隻の LCI(L) が 6 月と 7 月に訓練を受け、移送されLCI(L) プログラムを完了した。 LCI (L) タイプの士官は、15 隻の船による 2 つのプログラムで 100 人の士官と 800 人の隊員の陸上および慣らし航行訓練を監督し、大きな困難もなく無事に終了した。6 月のプログラムは 24 日間の予定だったが22 日間で完了した。7月のプログラムは、18日間の予定だったが17日間で完了した。13隻の LCI (L) が 6 月 9 日、さらに 2隻が 6 月 13 日に譲渡され、最後の 15隻は 7 月 28 日に引き渡された。

LCI(L)(大型歩兵揚陸艇)

 

◉哨戒フリゲート艦プログラム

 最初の PF 訓練プログラムは、10隻のフリゲート艦の将来の乗組員となる2,000人の将兵に対して実施された。25 日間のプログラムは 6 月 14 日から 7 月 8 日まで実施された。

PF(哨戒フリゲート)

 7 月末までにHULA-2プロジェクトは「山を越えた」ようになった。予定されていた180隻のうち、100隻が訓練を受けて移管された。PFが30 隻中 10 隻、AMが24隻中18隻、 YMS が36 隻中 18隻、LCI(L)は30隻中 30隻、SCは56 隻中 20隻、YRは4隻すべて、そして 8 隻の Y タンカーが移管された。

YR(工作船)

 

◉起こり得るトラブル

 7月末時点での主な困難は36隻残っていたSCの訓練と移管作業だった。 7 月分の SC はまだ到着しておらず、最終グループが 9 月中旬までに到着するとは予想されていなかった。9 月中旬の天候は予測不可能で、おそらく荒れ狂うことになる。30 日間の訓練と移動のスケジュールを考えると9 月と 10 月に達成できるとは思えなかった。30 日間の訓練スケジュールは、完全な運用条件と死傷者が出ないことを前提としていたものだ。

◉進捗報告、8月16日

 基地は4月16日に最初の陸上訓練プログラムが始まって以来、123日間で128隻の船舶を訓練し移送した。陸上での訓練はその価値を徹底的に実証し、訓練を終えた8,700人の訪問者は船上で一人の死傷者も出さなかった。陸上および慣らし航行の期間は減少し続けており、PFは27日から20日、AMとYMSは24日から18日、LCI(L)は24日から17日、SCは24日から19日に短縮された。

(住居)

 常時 2,500 人の訪問者が予想されていたが、8 月には 6,500 人を収容する必要があった。 訓練区域は2,400人から3,300人を収容できるように拡張され、2つの新しい住宅区域が開設された。旧民間区域は将兵1,500人を収容し、補給官区域は1,100人を収容した。残りの600人は到着後直ちにPFとAMに乗って移動させられた。住宅担当官は、これらの施設のすべての修理を処理し、これらの各エリアにレクリエーション施設を設置する責任があった。

ソ連側要員の居住区(CBMU635「Coldbay Project」より)

 

(医療)

 計画の早い段階で、医務局は基地の衛生設備を米国海軍の基準に引き上げる措置を講じた。5 か月間にわたる活動で、328 人の患者が入院し、入院延べ日数は1,950 日となった。213人のアメリカ人職員の入院日数は合計1,162日、訪問者115人の入院日数は788日となった。主な症例は、訪問者に対する緊急虫垂切除術を含む 63 件の外科的症例と、265 件の医学的症例が含まれていた。3 つの診療所ではそれぞれ、毎日平均 40 ~ 50 件の症例が診察されていた。2人の歯科医が米国人職員の1,278件、訪問者の213件を担当した。

(供給)

 8 月は、入出港ともに貨物の移動が依然として多く、船の店舗や衣料品店、小規模店舗での大量の販売があり、特にスペアパーツの移動が多かった。移管された船舶のスペアパーツ 50トンは訪問者の基地への輸送のために他の移送船に乗せられ、追加の 125 トンが出荷を待っていた。

(公共施設)

 公共事業部門は建物、調理室、橋、ドック、冷蔵庫ユニット、冷蔵倉庫、タンク、修理センターなどの数千の施設の建設、設置、保守、改善、ならびに荷役および荷降ろしを担当した。

(輸送)

 4 月 1 日から 8 月 16 日まで、HULA-2の海軍航空輸送サービスは 45,000 ポンドの貨物を積み込み、降ろされた貨物の重量は620,000 ポンドに達した。

(福祉・レクリエーション)

 福利厚生施設はとても充実していた。4 つの劇場、5 つのレクリエーション小屋 (2 つのビアホールを含む)、5 つのソフトボール場、ラジオ局、図書館、屋内および屋外のスポーツとゲーム用の設備、釣りと狩猟用具、湾でのボートツアー、人気雑誌が含まれていた。福祉レクリエーション基金は、船の売店と劇場の収益によって支えられた。

ソフトボール場(CBMU635「Coldbay Project」より)

 

(ドキュメンタリー映画制作)

 7 月に、HULA-2プロジェクトのドキュメンタリー映画が、司令官の監督の下、米国海軍の認可を受けた写真家によって撮影された。この映画は編集してカットすると 45 分になることが予想されており、プロジェクトの優れた記録として機能すると考えられた。

◉太平洋での戦闘停止

 8 月中旬、訓練と移転プログラムにおける困難は完全に克服され、プロジェクトは最も効率的に進んでいる。太平洋での戦闘停止のニュースは歓迎されたが、このニュースはHULA-2プロジェクトには影響しなかった。この時期、業務が集中的に行われており、お祝いの時間は取られなかった。

 HULA-2プロジェクトは9 月末までに完了する可能性があると考えられていた。しかし、残りの移送船が予定通り到着し、天候が良好で大規模な修理がなければ、最後のグループの移送船は10月初旬に移管でき、基地は10月15日に廃止されるだろうと全員が確信していた。

◉陸上訓練の終了

 最後の陸上訓練プログラムでは、残り 24隻の SC、14 隻のPF、および 12隻のYMS の乗組員候補者 3,700 名の士官および隊員に指導が行われた。このプログラムは8月25日に完了し、乗組員に10日間の訓練を提供した。この活動で訓練を受けた訪問要員の合計は 12,400 人に上った。SC と YS の訓練を受けた訪問乗組員の 30% に相当する、約 350 人がこの基地に戻り、其の後に到着した船舶の迅速な訓練を促進した。

 さらに 6 隻の PF と 4 隻の YMS が8 月下旬に移管された。PFの慣らし航行期間は 10 日間から 8 日間に、YMSは 10 日間から 6 日間に短縮された。太平洋での戦争終結により、これまでの対潜水艦訓練および砲術に重点を置いていた訓練は必要がなくなった。

 訓練時間は主に、夜間巡航を(36時間ではなく)24時間に短縮し、比較的重要ではないと考えられていた特定の小規模な演習を削除したことに加えて、砲術を単に射撃試験に、空母を装備の試験だけに削減することによって節約された。

 YMS の訓練期間の短縮は、このタイプの船で以前に訓練を受けた人員 (これら 4 隻の乗組員の約 30%) が復帰したことによって促進された。PF の訪問スタッフが非常に優秀な人材であったという事実によって、PF の慣らし運航期間の短縮も促進された。

 この時点では、4 隻の Yタンカーと2 隻の AM が移管される予定だった。これらの船には、最初のプログラムで訓練を受けた乗組員が乗務しており、滞在中に機械の修理や食料、潤滑油、燃料が提供された。さらに 4 隻のY タンカーに加え、41 隻の船舶 (SC 25 隻、PF 8 隻、YMS 8 隻) が移送される予定だった。

◉実際の結果

 基地司令部は、8 月下旬に上級訪問者から、HULA-2プロジェクトで移送された船舶がラシン(朝鮮半島)とパラムシル島(千島列島)の占領に役立ったという知らせを受け取り、うれしく思った。7 月に移送された 15 隻の LCI (L) は、 ペトロパブロフスク到着から10日後、パラムシル島に向かった。これらの作戦でLCI(L) は、コールドベイから移送された他の船舶によって支援されていた。上級訪問者によると、これらの船には死傷者は出ておらず、作戦は完全に成功した。

艦船の引き渡し式

 この上級訪問者は後に、この司令部によって最も優れた訪問将校であると考えられていた2人の訪問師団長が、朝鮮半島と千島列島での作戦でソ連英雄の称号を授与されたと報告した。一人はPF師団の指揮官、もう一人はAM師団の指揮官だった。

 PF 2隻、YMS 3隻、SC 1隻が8月最終週に6日間の慣らし航行を終えて9月2日のV-Jデー(対日戦勝の日)に移管された。 慣らし航行の短縮は敵対行為の停止と、輸送船の最終目的地でのますます厳しい天候を考慮すると、賢明であると考えられた。

◉最後の移送

 HULA-2プロジェクトによる船の移送を取り消す指令を受け取る前日の 9 月 4 日に 4 隻の PF が移送された。これらの船にはそれぞれ、10 日間の陸上訓練を受けた乗組員が乗組んでいた。慣らし航行期間は 1 日であり、移送日の 前日に行われた。移管後、艦艇は9月17日の出発まで整調訓練を続けた。この訓練は主に設備機器の操作に関するもので、訪問者が最終目的地まで船を航行するための十分な準備を確実に整えられるようにするためのものだった。

◉HULA-2の終了

 船舶のレンドリース移送は、HULA-2移送の即時停止を指示するCNO/CaminChからの指令を受けて、9月5日15時10分に突然終了した。その時点で、移管予定の 180 隻のうち 149 隻が訓練を受け移管されており、これは全体の 83% に相当する。4 隻の PF は移管されたばかりだったが、訓練を続けていた。同じ日に2隻のPFの移管が予定されていた。残りの 24隻のSC と 5隻の YMS は 9 月 18 日までに到着する予定だった。

 Com17は、コールドベイに向かうすべての船舶に対し、直ちにシアトルに戻るよう指示し、米国の中核乗組員は、最近移管されたまだ訓練中の船舶に助言者の立場で留まった。

 基地司令部が直面していた主な問題は2,250 人の訪問者をコールドベイから移送することであった。輸送船の到着を早めるためにあらゆる努力が払われ、最終的に米国からの輸送船は9月23日に予定された。米国側の要員は可能な限り速やかに退去させられていた。移送停止後に到着した2隻のPFは700人の将兵をコディアックに移送するために使用され、シアトルに戻るまでに2往復した。住居と訓練場は閉鎖され、陸上での訓練用具はすべて解体され、梱包された。基地の廃止は10月1日頃に完了すると予想されていた。

 最終移管日である 9 月 4 日、訓練スタッフは 142 日間で 149 隻の船舶を訓練し移管した。PF 28 隻、AM 24 隻、YMS 31 隻、SC 32 隻、LCI (L) 30 隻 、YR4隻。譲渡予定であったがレンドリース終了により中止となったものは、SC 24 隻、YMS 5隻、PF 2 隻であった。他の場所に移送された 8 隻の Y タンカーの乗組員は、コールドベイで訓練を受けた。これらのタンカーのうち 4 隻が帰還し、4 隻は別の場所に航行した。基地では12,400人の訪問者に陸上訓練を実施し、149隻の移送船の訓練を、船上で一人の重大な死傷者も出すことなく実施した。当初の指令ではわずかな陸上訓練が必要とされたが、すべての艦載装備の基礎について徹底した指導を行うことに成功し、太平洋での戦闘が終わる前にコールドベイを出港したすべての船舶はあらゆる点で、その使命を遂行する準備が整っていた。

◉結論 : 問題点

 このプロジェクトに関連する特定の活動の間には、明らかに混乱が存在していた。しかし、この混乱は解消された。移送船の到着予定は守られなかった。しかし、プログラムはそれに応じて自らを調整した。つまり、これらの困難は常にイライラさせられ、時には腹立たしいものではあったが、決して致命的なものではなかった。

 陸上での訓練は完全に成功した。船上機器の基礎について徹底的に訓練されたことにより、訪問者の慣らし運航指導の理解度は明らかに向上した。149 隻の船舶の乗組員が、慣れない船で訓練を受け、重大な船上死傷者を一人も出さなかったという事実は、陸上訓練プログラムの価値を証明する決定的な証拠であると考えられる。

 海上での慣らし運航訓練はその目的を完全に達成した。訪問者たちは、ラシンとパラムシルでの作戦を通じて、コールドベイを出港する時点で移送船が戦う準備ができていることを示した。

 このプロジェクトに継続的かつ完全な自信があったと考えるべきではない。そのようなプロジェクトに伴う責任の重さが軽いと考えるべきでもない。12,500人(※原文のまま)の訪問者、5,000人のアメリカ海軍職員、5,500人の沿岸警備隊職員に責任を負う司令官は、9月27日に最後の訪問者が出発した後、9月27日に部下にこう語った。「基地は、過去6か月で10歳も年を取った。これによって10月1日に退役した」。全員のたゆまぬ努力と協力により、このプロジェクトがこれほど短期間でこれほどの成功を収めて完了したことは、いくら評価してもし過ぎることはない。

コールドベイ

 

 

 

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