1944年1月27日のレニングラード解放80周年を前に、択捉島クリリスク(紗那)の郷土博物館は「封鎖(包囲)パンのレシピ」キャンペーンを開始した。このパンは島内の起業家コンスタンチン・ロゴザさんのパン屋で作られたものだ。試食した子どもたちは、べたべたして重く感じたが、食べることができた。1月24日には、クリル中等学校の10年生と11年生を対象に包囲戦をテーマにした講演会が開催され、生徒たちにパンが配給される。25日はレイドヴォ(別飛)のレイドフスカヤ中等学校でも同じイベントが開催される。レニングラードの包囲が解除された27日には、ベガストアで包囲パン(1日あたりの配給基準に基づく125グラム)を購入できる。また、軍の町ゴリャチエ・クリュチ村(瀬石温泉)では、子供たちがレニングラード包囲戦の困難を描いた絵画展が開かれている。(「赤い灯台」テレグラム2024/1/23)
レニングラード封鎖 ナチス・ドイツはソ連第2の都市レニングラード(当時の人口300万人)を消滅させようと1941年9月から44年1月まで(872日間)包囲。ドイツ軍は電力、ガス、給水の施設、食糧倉庫を砲撃で破壊した。補給路を断たれた市内では深刻な飢餓が起きた。41~42年の冬は平均気温が氷点下18.7度の厳冬で、市民らが次々と死亡した。死者数はソ連政府の当初の推計で約63万人、その後の研究で100万人以上ともされる。ドイツ軍の攻撃による死者は3%で、残る97%は餓死だったという。レニングラード包囲は独ソ戦の中で、ソ連にとって最も厳しい戦いの一つだった。極限状況を耐え忍び、はね返した底力は「ロシア人の強さ」だと語り継がれている。プーチン大統領の母親は包囲を生き延びたが、同氏の兄は死亡した。(日本経済新聞2019/1/28より)
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