国後島南部の泊村セイカラホール地区で生まれた須崎ナヨさん(90)は、1945年10月、島から小船で根室に逃げてきた時のことを鮮明に覚えている。
それは12歳の夜だった。霧がかかり、風もある中、波も高い。船は大きく揺れ、海水が入ってきた。
きょうだい4人と父親、近所の子ども1人の6人が乗っていたのは小船。他の船にけん引されながら、旧ソ連軍に見つからないよう暗くなってから海に出た。荷物はリュックに入る衣類だけだ。
「本当に小さい船だった。海に下ろしたら葉っぱみたいなもの」と振り返る。真っ暗な海を渡り、根室にたどり着くまで13時間かかった。「助かるとは思っていなかった」。命からがらの避難だった。
船で後ろを振り返ると別の船が見えた。その小船は根室に近づいたところで転覆した。「助けてくれ、助けてくれ、と叫ぶ声がまだ耳に残っている」。恐怖の記憶は今も消えない。
須崎さんは国後島で生まれ育った。13人きょうだいの上から7番目。実家はホッキ漁やサケ漁を営み、加工して根室町(当時)に出していた。
「生活は苦しくなかった。ホッキでもサケでもみんなとれたからね」。須崎さんは語る。
45年9月に旧ソ連が国後に侵攻すると、その生活は一変した。日中は旧ソ連軍に見つからないように外出を控え、暗くなってから芋を掘り、家に隠した。学校にも行かなくなった。馬を奪われたこともある。
船で逃げ、根室に着いてからは家族でコンブ漁や東梅地区でホッキ漁などを営み、生計を立てた。
国後島南部の泊村は晴れた日、根室市内からも見える。それでも須崎さんはビザなし渡航に参加したことはなく、国後島を出た後、一度も故郷を訪れていない。「引き揚げでえらい目に遭ったから、島には行きたくない。今でも目をつぶるとその時の情景が浮かぶ。思い出せば涙が出る」。声を震わせながら語った。
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