ちょうちん行列も再現―奄美復帰70年で記念集会

 鹿児島県・奄美群島が日本に復帰して70年を迎えた25日夕、奄美市の名瀬小学校で、市と市民団体共催の集会が開かれた。安田荘平市長は「平和な暮らしの尊さを伝えることは、今を生きる私たちの責務だ」とあいさつした。

 集会には約1600人が参加。地元生徒を代表し、名瀬中学2年の杉本寛喜さん(14)は「先人が守った文化を絶やすことのないよう、受け継ぐことが使命だ」と思いを述べた。

 集会後は、復帰当日に行われたちょうちん行列が再現された。小中学生を含む800人超が、ちょうちんを持って市中心部を練り歩き、沿道に手を振ったり、指笛を吹いたりして復帰を祝った。

 同日午前には、市民団体「奄美群島の日本復帰運動を伝承する会」などの代表らが同市のおがみ山公園に集まった。復帰運動の中心に立った詩人・泉芳朗の銅像に献花し、同会の安原てつ子副会長(70)は、復帰までの歴史について「ずっと語り継いでいかなければならない」と力を込めてあいさつした。(時事通信2023/12/25)

領土問題に触れた吉田演説  帰ってきた日本(15)

日米外交60年の瞬間 特別編集委員伊奈久喜

(日本経済新聞2012/12/15)

 1951年9月7日夜(米太平洋時間)の吉田茂首席全権による演説は、奄美大島琉球諸島、小笠原群島、そして北方領土問題にも触れた。竹島尖閣諸島には直接触れていない。ここでは吉田演説に沿って領土問題を考える。竹島尖閣については講和条約の中身を点検する際に説明するのが適切かもしれないが、ここでも要点のみ別掲しておく。

奄美琉球、小笠原「1日も早い」復帰を

 吉田はまず奄美大島琉球諸島、小笠原群島に触れて次のように述べた。

「領土の処分の問題であります。奄美大島琉球諸島、小笠原群島その他平和条約第3条によって国際連合信託統治制度の下におかるることあるべき北緯29度以南の諸島の主権が日本に残されるというアメリカ合衆国全権及び英国全権の前言を、私は国民の名において多大の喜をもって諒承(りょうしょう)するのであります。私は世界、とくにアジアの平和と安定がすみやかに確立され、これらの諸島が1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります」

 若い読者は首をかしげるかもしれない。ここで琉球と呼ばれた沖縄が1972年5月15日に日本に返還されたことは知っていても、現在は鹿児島県である奄美大島、東京都の小笠原群島がサンフランシスコ講和条約で、国連の信託統治のもとに置かれた事実は忘れられた過去になりつつある。

 奄美群島は53年12月25日に、すでに返還されていたトカラ列島(52年2月10日返還)を含む全部が日本に復帰した。クリスマスプレゼントと当時いわれたが、米軍統治は8年余りだった。

 一方、小笠原の返還は68年6月26日だった。小笠原返還交渉は、この物語で後に触れることになる沖縄返還交渉の前哨戦だった。

 吉田が述べた「これらの諸島が1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります」が最終的に実現したのは72年5月だから演説のおよそ21年後だった。

しかしいまだ返還される領土がある。ソ連(現在のロシア)に不法占拠された北方四島である。

 吉田はこう語る。

「千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連全権の主張に対しては抗議いたします。日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿(はさ)さまなかったのであります。ただ得撫(ウルップ)以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。1875年5月7日日露両国政府は、平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計ったのであります。その後樺太南部は1905年9月5日ルーズヴェルトアメリカ合衆国大統領の仲介によって結ばれたポーツマス平和条約で日本領となったのであります。千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容されたのであります。また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります」

「云いっぱなし」の北方四島

 改めて確認しておこう。吉田が指摘したのは次の3点である。

  • 千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連全権の主張に対しては抗議する。千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容された。
  • 日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかった。
  • 日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領された。

 ソ連の不法占拠に抗議はするが、「これらの諸島が1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待する」と述べた奄美大島琉球諸島、小笠原群島の扱いとは差がある。

だから現場にいた宮沢喜一も、後に「確かに『云(い)いっぱなし』以上のものではない」と書いている(宮沢「東京―ワシントンの密談」)。「もっと明瞭な意思表示」ができなかったかと宮沢は考える。

 元外交官の東郷和彦は「国後・択捉」と「歯舞・色丹」との間に吉田が差をつけている点に注目する(東郷ほか「日本の領土問題」)。

 つまり歯舞・色丹については「日本の本土たる北海道の一部を構成する」とし、国後・択捉は「日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかった」とするにとどめている。北方領土をめぐる2島、4島の議論とも関連するきわどい表現ともとれるが、4島返還を求める日本政府の説明と矛盾するものではない。

 

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