米英ソ3国の首脳が「南樺太の返還と千島列島の引き渡し」を密約したヤルタ協定の秘密条項「ソ連の対日参戦に関する合意」が3国同時に公表されたのは1946年2月11日だったが、米国務省はそれ以前から情報をリークし、新聞等で報じられていた。ホノルルで発行されていた邦字紙「布哇タイムス(Hawaii Times)」の1946年1月29日付紙面には「バーンズ国務長官きょうの公表によれば、英米ソ三大国ヤルタ会談中に樺太および千島列島の永久的所有権をソ連に与うべく協定に到達していた」という記事が載っている。
こうした報道を受けてのことかどうか…ソ連は2月2日のソ連最高会議幹部会令で「南サハリン及びクリル諸島の領域に豊原市を中心とする南サハリン州を設置し、これをロシア共和国ハバロフスク地方に編入する」と決定した。占領地を国内法の手続きで自国領土に組み込むやり口はクリミアでもウクライナ東部・南部4州でも行われた。
秘密条項の公開の経緯について、バーンズ国務長官からウィナント大使(駐英国大使)宛の電報(1946年1月29日午後8時)にこうある。
「千島列島とサハリンの南半分のヤルタで合意に達したことについて米国の報道機関が何らかの情報を入手しているため、ベビン(英国外務大臣アーネスト・ベビン)にそのことを伝えていただきたい。私は、ソ連の対日戦争参加に関する二月十一日の合意は公表されるべきであると考えている。私はベビン氏が2月4日にロンドン、モスクワ、ワシントンで同時公表することに同意してくれることを願っている。モロトフ氏(ソ連外務大臣)にも同様の要請をしている」
この電報は、第 165 号としてモスクワに別途送信された。この協定の公表に賛成する回答が英国とソ連の両国から届いた。そして決定された公表の日は、1945 年 2 月 11 日の署名記念日だった。ケナン氏(駐ソ連代理大使)はさらに、1946年2月12日、モスクワからの電報410で次のように報告した。「その日のモスクワの新聞はロシア語の記事とともに、スターリン、ルーズベルト、チャーチルの署名がある英語の原文複製を掲載した」。
樺太と千島の永久的確保権
バーンズ国務長官きょうの公表
「布哇タイムス(Hawaii Times)」1946年1月29日
ワシントンにてライクマン(国際)特派員二十九日発–バーンズ国務長官きょうの公表によれば、英米ソ三大国ヤルタ会談中に樺太および千島列島の永久的所有権をソ連に与うべく協定に到達していた由である。
バーンズ氏は対日戦勝日後まで右協定を聞知していなかった旨認め、英米は1905年露国から日本へ割譲された樺太南部をソ連へ還付すべく意見の一致を見た旨述べた。千島列島も亦嘗(またかつ)てソ連領土であったとつたえられているに鑑み樺太の場合と同様の措置をとったといわれる。
なおヤルタ会談では故ローズヴエルト米大統領、チャーチル前英首相およびスターリン・ソ連首相が三国を代表した。
バーンズ氏によれば、樺太および千島列島の処理法に関する協定は文書にされ、折から赤軍が対ベルリン大作戦に入らんとした時であり、極秘に附されていたものであるが、さらに慎重を期するため故大統領はホワイト・ハウス帰還の際、自身で右文書を携行したのである。(写真はバーンズ氏)
千島占領は無期限 ソ連側、米国務次官の見解反駁
ロンドン(国際)二十八日発—アチソン国務次官は先週火曜日記者団会見において「ヤルタ協定はソ連の対千島占領を規約してはいるけれども、その占領は暫定的であって恒久的ではないと余は解釈している」と発表した。
ソ連政府は右発表にたいしタス通信を通じてアチソン次官の見解が誤っていることを指摘。ヤルタ協定は、「ソ連の千島列島無期限占領および南カラフト還付」を明記していると主張した。なおバーンズ国務長官の見解はソ連側の主張と同じであるとみられている。
コメント