旧ソ連の北方四島侵攻77年 記憶たどる元島民たち「戦争の犠牲者はいつも市民」

 第2次世界大戦末期の旧ソ連軍による北方四島への侵攻開始から28日で77年。継承国ロシアのウクライナ侵攻を受け、日ロ関係はかつてなく悪化し、北方領土交渉も四島へのビザなし渡航も再開の見通しが立たなくなった。「戦争の犠牲になるのは、いつの時代も一般市民だ」―。元島民たちは故郷を奪われた当時の記憶をたどり、ウクライナの戦渦に思いを重ねている。(北海道新聞2022/8/28)

 「殺されると思った。恐ろしくて、生きた心地がしなかった」。1945年8月28日、北方四島旧ソ連軍が最初に上陸した択捉島留別村出身の松尾正美さん(87)=北広島市=は、旧ソ連兵を初めて見た時の衝撃を今も覚えている。

 当時10歳。村の太平洋側の集落、年萌(としもい)の自宅に下校中、機関銃を乗せた旧ソ連軍のトラックと鉢合わせし、慌てて道路脇の物置に身を隠した。ソ連兵は郵便局の通信回線を切断してその日は立ち去ったが、ほどなく小銃をぶら下げた将兵が歩き回るようになった。

 食料を保管していた防空壕(ごう)は荒らされ、馬3頭を奪われた。漁師だった父の船は破壊され、酔ったソ連兵が家に侵入した時には、母や姉は奥の部屋に逃げ、父は大声を上げて棒を振り回して追い払った。「あんなおやじは見たことがなかった。みんな必死だった」

 松尾さん一家は47年7月、択捉島を強制退去させられ、樺太の真岡(ホルムスク)の収容所を経て、空知管内沼田町の知人宅に身を寄せた。島を追われて2日後、母は貨物船の中で松尾さんの妹を産んだ。周囲には「どうせ生きられないから、海に捨てろ」との声もあったが、母はかたくなに拒み、幼子を守り抜いた。

 択捉島上陸から4日後の45年9月1日、旧ソ連軍は色丹島にも侵攻した。「海で友達と遊んでいたら、大きな船が現れ、自動小銃を構えた兵隊6人が上陸してきた」。島東部のチボイに住んでいた高橋繁雄さん(88)=根室市=は、こう振り返る。土台造りを手伝った家の近くの灯台は、ソ連兵たちの拠点になった。

 しばらくして、夜にイカ釣り船に1人で乗っていると、灯台から赤く光る銃弾が飛んでくるのが見えた。約20発。船のそばの海面に着弾し、「プシュー」と音を立てた。「恐ろしい。ここで死ぬのか」。必死に陸に戻ると、今度は灯台とは別の方向から「パン、パン、パン」と3回、銃声が響いた。地面にはいつくばり、命からがら逃げ帰った。

 11月28日夜、高橋さんと家族はソ連兵の監視をかいくぐり、チャーターした小舟で島を脱出した。灯台の明かりが遠ざかっていく光景は、今も忘れられない。「戦争がなければ、ずっと色丹にいたはずだ。生まれた島で死にたかった」

 ロシアのウクライナ侵攻は半年が過ぎても収束の気配はなく、多くのウクライナ人が今も故郷を追われている。「どんな問題でも、武力に頼れば、どちらかが勝つまで戦争が続く。なぜ政治や外交で解決できないのか」。択捉島出身の松尾さんは、ウクライナの惨状に自身の記憶を重ね、やるせなさを募らせる。

 「77年前の戦争も、ウクライナの戦争も死んだり、故郷を奪われるのは偉い人ではなく市民。一日も早く戦争をやめてほしい」。高橋さんはビザなし渡航で訪れることさえできなくなった色丹島を思いながら、絞り出すように言った。(村上辰徳、武藤里美)

<ことば>旧ソ連北方四島侵攻 1945年8月9日に日ソ中立条約を無視して対日参戦した旧ソ連は、日本のポツダム宣言受諾後の18日に千島列島への攻撃を開始。28日に択捉島に上陸し、9月5日までに全島を占領した。終戦時に四島にいた1万7291人の島民たちは漁船で島を脱出したり、樺太経由で強制送還された。ロシアは、米英ソ首脳が対日参戦の見返りとして、千島列島を引き渡すことを密約した45年2月の「ヤルタ協定」などを根拠に、四島領有は「大戦の結果」だと正当性を主張している。

択捉島留別村役場の職員だった兄がひそかに持ち出した家族の戸籍原本

 

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