■対話に価値
北方四島の元島民とロシア人島民の「ビザなし交流」が開始30年の節目を迎えた22日、根室市図書館の松崎誉館長(53)は当時の新聞を見つめ、悔しそうに話した。「あの時は、あと数年で島が返り、ロシアとの友好関係が進んでいくと思っていた。まさか戦争で交流が中断することになるとは」
1992年4月22日午後1時10分。ビザなし交流の第1陣となるロシア側訪問団19人を乗せた貨客船「マリーナ・ツベターエワ号」の白い船体が根室・花咲港に接岸した。気温2度。あいにくの雨で岸壁での歓迎式は中止になったが、約500人の市民が出迎えた。
市国際交流課にいた松崎さんは船に乗り込み、「国境の海」を渡ってきたロシア人島民を案内した。ロシア語が使える初の職員として、1日付で採用されたばかりだった。「新しい時代が始まった」。あの日の高揚感は、今も忘れられない。
四島の主権問題を棚上げし、パスポートも査証(ビザ)も使わないビザなし交流は91年4月、当時のゴルバチョフソ連大統領が来日時に提案した。元島民とその家族の「北方領土墓参」は64年から行われていたが、日本人とロシア人島民が相互に往来し、率直に意見をぶつけ合える枠組みは画期的だった。92年5月に日本側第1陣45人が国後島などを訪問。2020、21年はコロナ禍で全面中止になったが、これまでの参加者は延べ2万4488人に上る。
「ビザなし交流が始まるまで、島に誰がいるかも知らなかった。酒を酌み交わし、対話できたこと自体に価値がある」。千島歯舞諸島居住者連盟根室支部の元島民2世らでつくる「かけはしの会」の法月(のりつき)信幸会長(64)は、こう強調する。
法月さんらは06年から5年間、国後島を毎年訪れ、ロシア人島民と返還後の「共住」をテーマに対話を重ねた。「ロシア人島民も納得できる解決策を探したい」。教育や年金の制度などについても意見交換し、その後も毎年のようにビザなし交流に参加してきた。
故郷の島々と目の前の海を奪われた多くの根室市民にとって、ロシア人は長い間、顔が見えない「怖くて憎い存在」(元島民)だった。共に食卓を囲み、涙を流して別れを惜しんだビザなし交流の積み重ねは、その印象を少しずつ変えた。
■信頼は今も
「どんなに良い計画を立てても、それ(戦争)は悪いことです」。ロシアのウクライナ侵攻から3日後の2月27日、根室市民でつくるビザなし交流支援団体代表の本田幹子さん(64)のスマートフォンにメッセージが届いた。送り主は、20年以上交流してきたロシア人島民の男性だった。
ウクライナ侵攻に絡み、ロシアはビザなし交流と、元島民らが旧居住地を訪れる「自由訪問」の停止を発表した。プーチン政権による「ジェノサイド(大量虐殺)」との非難も強まり、ロシアとの「交流」自体を否定する空気も広がる。
「ロシア人島民は、人が死ぬのを喜ぶような人たちではない。積み上げてきた信頼が崩れることはないと信じたい」。本田さんは、祈るように話した。
「民間のパイプ」―。根室の地酒「北の勝」を醸造する碓氷(うすい)勝三郎商店の碓氷ミナ子店主は、ビザなし交流をこう呼ぶ。戦前、碓氷家が北方領土に持っていた缶詰工場や漁場は、ソ連侵攻で全て奪われた。ビザなし交流の最終目的だった「北方領土問題の解決」は、さらに遠のいてしまった。
それでも、碓氷さんは思う。「30年かけて作ったパイプは大事にしなければならない。今は詰まっても、水はいつか流れるから」(北海道新聞2022/4/23)
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