【根室】戦前の北方領土で重要な産業の一つだった林業。木材は根室で建材として使われたが、終戦間際の根室空襲で多くは焼失した。被害を免れたわずかな建物が、現在も北方領土の木材の質の高さを伝える。「島の木材はもう手に入らない。大切に守りたい」。所有者たちは豊かな島の記憶をとどめる木材に、そう思いを重ねる。2月7日は「北方領土の日」。(北海道新聞根室版2022/2/6)
根室市中心部にあるチシマザクラの名所、清隆寺。細川憲了住職(92)によると、本殿は東北地方の名工・故花輪喜久蔵氏が手がけ、1924年(大正13年)に完成した。花輪氏は良質な大木の産地として国後島に着目。同島の木は厳しい寒さから年輪の目が詰まり、丈夫だと評価が高かった。花輪氏はその中でもよく育ったエゾマツをえり抜き、本殿を造った。
細川さんは戦後、本殿の木材を供給した木材会社の知人から、国後島産だと教えられた。当初はそれほど驚きはなかったが、後に立ち木を削り、そのまま1本の柱に仕上げたと知り「まっすぐな木を豊富に生み出した国後の自然の豊かさを知った」。大きな地震や強風に見舞われた際「建物が揺れても、必ず元に戻る」と、島の木のしなやかな力強さを感じるという。
国後島の木材は根室に運ばれ、建物や船の材料として活用された。しかし45年7月の空襲で根室の市街地の8割が焼失。歴史を伝える建物はほぼ失われた。細川さんは、国後の木が使われた本殿について「生産拠点としての四島があって、根室のマチが発展したことを表している。それを伝える数少ない遺産といえるのではないか」と語る。
根室市光洋町の吉沢木材の事務所の梁(はり)には、国後島産のカバノキとされる太い木材が3本使われている。1本の断面は30センチ×45センチ、長さは5・4メートルあり、30年以上前、市内の企業が倉庫を解体する際に吉沢克弘社長(76)がもらい受けた。建物の由来が記された棟札には完成年である「昭和8年」の記載があった。同業者から国後材の質の高さを聞いており、年代と材質の良さから「北方領土の木だ」と確信した。
同社の創業者である父、末吉さん(故人)は根室の木材会社に勤め、冬は国後島で木材を調達する業務に携わった。資金をため、51年に吉沢木材を設立した。吉沢社長は「(木材を見て)国後で苦労したおやじを思い出した。国後島は会社のルーツともいえるかな」と話す。
梁を見上げながら、吉沢社長は言う。「この木材は全くゆがまない。あと50年でも100年でも持つだろう。島のものは大事にしたい。将来事務所を使わなくなる日が来ても、また別の場所でこの木材を使い続けてほしい」。(武藤里美)
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「北方領土の日 根室管内住民大会」は7日正午から、動画投稿サイト「ユーチューブ」の北隣協「原点の声」チャンネルで生中継する。新型コロナウイルス感染対策のため、昨年に続いて一般参加者は入れずに開催する。
<ことば>北方領土の林業 国後、択捉、色丹の各島で営まれた。トドマツ、エゾマツ、カバなどの優れた森林が多く、原木は根室や函館に送られて建物や漁船、魚箱などに使われた。中でも国後島では北部西海岸地域で良質な木材を生産し島内産業の生産額のうち林業が12%を占めた。
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