国後島・泊 1948年に日本の寒天工場を再興 ソ連で唯一イタニグサが生育

国後島南部はロシアで唯一、紅藻類のイタニグサが育つ場所であり、その生産量は商業として成り立つほどである。1948年8月31日付けの地元新聞に「寒天」の記事が掲載されている。赤軍が上陸する前から、国後島ではイタニグサから寒天が作られていた。ゴロブニノ(泊)の海岸の浅い海に大量に生育していた。当時、寒天の生産を行っていた日本人は、最も裕福で成功した人々だった。1990年代後半、ビザなし交流(北方四島交流事業)で、その子孫たちがやって来て、家族や親戚がどのようにしてイタニグサを採取し、貴重な製品を作っていたかについて話してくれた。彼らの家族は北海道で最も裕福な人たちだった。1946年、残念なことに、最初に国後島に入植したソビエトの人々は多くを破壊した。それは寒天でも起こった。しかし、1947年に、南クリル地区の指導者(A.S.ラプテフが地区執行委員会の委員長を務めていた)は、寒天の価値を理解した。そして、寒天の生産に精通している専門家を全国から探した。そして、見つけた。技術責任者として同志ヴィゲル、工場長として同志シュシュケヴィッチ、エンジニアとして同志グロシェフが任命され、短期間で復旧させ、寒天工場は1948年8月7日に操業を再開した。当時は、20トンほどの船に乗ったソビエト漁師がイタニグサを採取し、陸では女性たちが選別作業を行った。特別な場所で乾燥させ、干し草のように変えた。乾燥に必要な時間は気象条件に左右され、2日~8日だった。その後、工場の大釜で沸騰したお湯の中に入れ、10%の石灰を加えて24時間ゆで上げる。50度まで冷ますと、液体はゼリー状に変化する。ゼラチンをナイフで短冊状に切りプレスしたものを竹製のマットの上で乾燥させる。最後に、雪の下に2~4カ月寝かせて寒天が出来上がった。寒天は海外に輸出され、食品だけでなく医療用としても需要があった。それは非常に高価だった。国後島では、寒天の製造はロディーナ養魚場に属していた。その後、南クリル・リボコンビナートに移管された。今、サハリンでは再び寒天を生産することが決定されたが、国後島・泊が生産地として選ばれるかどうかは分からない。(kurilnews.ru 2022/1/20)

国後島・泊でイタニ草630トン採取 寒天を中国などに輸出 – 北方領土の話題と最新事情

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写真は1956年のゴロブニノ村(泊)。イタニグサの収集と乾燥のための旅団

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戦前泊村にあった寒天工場。ソビエト人写真家が1946年に撮影した

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イタ二グサ

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