1992年5月のビザなし交流日本側第1陣に参加した元島民3人の一問一答は以下の通り。日本からのビザなし交流第1陣に参加した元島民12人。得能宏さん(左から2人目)、萬屋努さん(同5人目)、影井豪之助さん(同7人目)の姿も見える=1992年5月16日、択捉島沙那 (北海道新聞電子版2022/1/3)
「今後どうあるべきか、立ち止まって考えるべき」
――ビザなし交流の新たな枠組みが始まると知った時、どのように感じましたか。
「『一歩前進したな』と思いましたね。1991年に旧ソ連のゴルバチョフ大統領が来日した時、私は自民党の役職に就いていた関係で上京しました。大統領にも会う機会に恵まれ『北方四島に住んでいました』と直接伝えました。それから(海部俊樹首相との)共同声明ができあがるまで待ち、夜になって配られた資料に『簡素化された無査証の枠組み』という言葉がありました。ビザなし交流のことですね。すでにあった北方領土墓参よりも自由に島で行動でき、元島民や親族以外にも参加できる。前進だと感じました。後に、交流事業はロシア側からの提案だったと聞いて驚きました」
――92年5月のビザなし交流で、初めて北方四島に渡ったそうですね。
「根室市の花咲港を出て、到着した国後島の古釜布では船の上で一晩過ごしました。明け方に目覚めて、古釜布湾から朝焼けの街並みを見ました。震えたね。『これがふるさとだ』って。私は国後島生まれじゃないんですよ。でも、四島がふるさとだっていう思いでいますから。昔懐かしさと驚きと、うれしさが交錯した気持ちでした。劇的なことでしたね。30年たっても、どれだけ時間がたっても忘れません。絶対に」
――ロシア人島民はどのような様子でしたか。
「どこの島でも、みんな歓迎してくれましたよ。ソ連は共産主義が70年続きました。(ソ連時代末期以降)少しずつ日本人と会い、日本の様子を知るようになり『日本みたいになりたい。一緒に暮らしたい』という発想になっていたのではないかと思います」
――最初のビザなし交流で印象に残っていることはありますか。
「ちょっと驚いたのは、択捉島の文化会館での歓迎会ですね。式典が始まったら、壇上にいるロシア人の代表者をののしる声が聞こえてきました。後で知ったのですが、クリール地区議会はその前の年に『日本人は島に上げないし、歓迎もしない』という決議をしていたそうです。それがわれわれが行ったら大歓迎したものだから、『これはどういうことだ』と怒った人がいたのです。ロシア人もいろいろな考えがあるんだね」
――ビザなし交流にはこれまで12回参加しました。ロシア人島民との絆は深まりましたか。
「最初のころに出会った、択捉島のロシア人女性が印象的です。当時30代半ばの彼女は、親の代に島に来た島民2世でした。『ここは私の生まれた島なんだ。親のお墓もあるから、私は行くところがない』と言っていました。私たち元島民と同じような状況ですね。お互いに被害者意識みたいなものが芽生えてね、2人して泣きましたよ。似たような境遇を持ってるから、すぐに打ち解けられたんです。だから『平和条約が結ばれたら、仲良く一緒に暮らすことを考えよう』って約束しました」
――その後も彼女との交流は続いていますか。
「何回もうちにホームステイに来ていますし、私がホームビジットに行くときは必ず彼女の家に行きます。彼女は私の誕生日に、今でも毎年電話をくれるんですよ。ビザなし交流の機会に私の孫の運動会に来てくれたことも、娘さんのウエディングドレス姿の写真を送ってくれたこともあります。彼女は特別な存在です」
――ビザなし交流が始まり、30年になります。
「手探りの状態で始まった92年の最初の渡航で、われわれが一生懸命に雰囲気づくりをしなきゃだめだなと感じました。その先に返還があると思ったからです。そこから30年がたちました。島生まれのロシア人は日本人と仲が良く、好意的です。特に、ビザなし交流に参加したことがある人ほど親日家になっています。島に行ったときは形だけではなく心から歓迎してくれますし、向こうから来たときもとても喜んでくれます。住民同士の交流は深まっているんです」
――一方、新型コロナウイルス感染拡大によりビザなし渡航は昨年、一昨年と中止になりました。影響はあるでしょうか。
「2年間交流が止まっている間にロシアは憲法を改正して領土割譲を禁止したり、四島に免税制度を導入しようとしたり、インフラ整備をしたりと実効支配を強めています。この2年間にロシア人島民の日本への考えがどう変わったかはちゃんと確認しないといけません。でも、日本人と一緒に住みたいという気持ちは変わっていないと思います」
――ビザなし交流は、今後どのようにあるべきでしょうか。
「ビザなし交流は『領土問題解決までの間、相互理解の増進を図り、領土問題の解決に寄与することを目的として』行う事業だとうたっていますね。相互理解は深まりましたが、領土問題の解決には寄与しているでしょうか。現在のところ、返還にはつながっていません。今後ビザなし交流がどうあるべきか、立ち止まって考えるべきではないかと思います。そもそも領土問題は外交問題です。政治が悪いのではないでしょうか。『北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する』との政府方針の通り、しっかりと交渉を進めてほしい」
元島民・得能宏さん(87)=色丹島出身
「領土返還につながらないと決めつけられるでしょうか」
――初めてのビザなし交流に参加したときの様子を聞かせてください。
「最初の訪問地、国後島では墓地、それからセセキの温泉に行きました。海岸線の道なき道を大きな四駆のトラックで走りました。国後島出身の訪問団員は海水パンツを持ってきていました。さすがだなと思いました。わかっているんだね。自分の島だから。地元なんだな。僕も温泉に入りました。お湯が濁っているから見えなくてよかったよ(笑)」
――その後に故郷の色丹島に行きました。
「穴澗の桟橋で小学校の子どもたちがいっぱい出迎えてくれました。日の丸とロシアの旗を振って。北方領土墓参で色丹島に来たことはありましたが、ロシア人との接触はあまりなく、何しにきたんだという感じでした。ビザなし交流は雰囲気が違いました」
「穴澗で上陸して靴を脱いで、桟橋の隣の砂浜を歩くと、熱いものがぐーっと胸にこみあげてきました。ようやくふるさとに来たんだな、と。ビザなし交流は、彼らの方から先に(4月に)来てくれた。僕は感銘を受けましたね。おまえら来たいんだったら来ればいいというのではなく、島のロシア人の方から先に来る。日本人と交流したいという表れでしょう」
――色丹島で出迎えを受けた後はどうしましたか。
「何台もの車に分乗してお墓参りです。色丹島出身の3人だけは自分のふるさとだから好きなところに行きなさいと言われました。僕と小泉敏夫さん、西田貞夫さんの3人です。小泉さんと西田さんの家のあった場所までは行けました」
「その奥がうちだったのだけれど、国境警備隊の基地になっていました。バラ線を張って、高いゲートがある。そこにおばあさんの門番がいて戸が開いている。僕らに『来い来い』と言うのさ。でも軍人ではないでしょう。とがめられたら大変だと感じ、先には行きませんでした。うちはそこなんだよなと思いながら。すぐ近くまで行ったんですよ。学校に行くのに毎日そこを通ったんです」
――でもその後、ロシア側から特別の許可を得て生家の跡を訪ねましたね。
「2012年の自由訪問のときでした。それまでにビザなし交流で地元の村長さん、校長先生たちと友達になり『あんたがたの中にもここで生まれた人がいるけれど、それと同じなんだ。おれももう年だ。生家に行けないのが心残りだ』と話しました。純粋にふるさとを思っている人間だと分かってくれたのではないでしょうか。僕のことを信用し、特別に行かせてくれました。人のつきあいは大事だと思いました」
――色丹島に「息子」と呼ぶロシア人がいますね。どんな出会いだったのですか。
「十数年前、自由訪問で訪れた時、日本人の通訳が色丹島生まれの青年を連れてきて『ここで生まれた日本人と友達になりたいというのですが、どうしたらいいでしょう』と言うんです。そうしたら、息子とだいたい年が同じくらいさ。『友達になるより息子にならんか』と言ったら『いいです』という。『おれはここに13年しか住んでいない。あんたは30年も40年も住んでいる。でもうちの祖父は100年以上前からここにいるんだ』と彼には言いました」
「彼は仕事の関係でビザなし交流に参加できませんが、奥さんが来ます。一家で歓談したり、ずっと交流が続いています。新型コロナウイルスの影響でビザなし交流が途絶える中、彼らは僕の祖父の眠る墓地を掃除してくれています」
――ビザなし交流は領土返還に寄与するために始まりました。しかし30年たっても返還につながらないので、続けても仕方ないという声も聞かれます。
「領土返還につながらないと決めつけられるでしょうか。もうだめだという結論にはならないと思います。先輩たちには領土問題の解決には100年も200年もかかると言われてきました。その言葉が耳から離れません」
――30年で成果を問うのはまだ早いと?
「早い、早い。そんなことで結論を出したらどうなるの。僕はそう思っているんです。こんなものやってもどうもならないと、僕もよく言われます。税金をかけて、なんも効果がないんじゃないかと。そう言われると『費用対効果を求めるものではない』と答えるの。教育と同じ。教育だってお金をかけるでしょう。でもすぐに効果は表れません。それと同じです」
「元島民が生きているうちに島が返ってくればうれしいけれど、元島民のためだけではないでしょう。日本のためだと思います。僕らは縁があって島に住んでいた。けれども日本の領土、ふるさとの問題なのです」
――故郷を思う気持ちが大事なのですね。
「人間はふるさとを恋しがります。『息子』たちのふるさとも色丹だから、そのことを大事にしてくれています。ふるさとというものは人間が生きていく上で力になります。だから元島民がふるさとに帰れないというのは非常に残酷なんです。87年間生きてきて、ふるさとは心の中の大事な部分なんだよ、と子どもたちには講話で伝えます。元島民が島に帰りたいという気持ちをわかってほしいと」
――そのためにも北方領土は日本に返還されなくてはいけないのですね。
「そうです。四島返還の線は崩せません。絶対に崩せない。ただ島が日本に返ってきたときにロシア人は帰れ、ということにはなりません。一緒に暮らす。特殊な混住です。世界で例のない地域になる。理想、きれいごとかもしれないが、僕はそう思っています。今住んでいるロシア人を追い出す気持ちはさらさらありません」
――国を超えた関係ですね。
「人と人とのつながりが国を動かします。それがないと国なんか動かせません。そのためにもビザなし交流をなくさないでほしい。絶対になくしてはいけないと思います」
――本心では日本の領土になってもいいと思っているロシア人島民はいるのでしょうか。
「いるんじゃないでしょうか。ロシアでは表だっては言えない。でも根室と一緒の生活圏のほうが生活物資は入ってくるから、日本のほうがいい、と心の中で考えている人はたくさんいると思います」
元島民・影井豪之助さん(90)=国後島出身
「島に行けるのは、夢のようなことでした」
――日本側からの初のビザなし交流に参加が決まった時、どのような気持ちでしたか。
「とにかく『自分の生まれ故郷に渡れる、島に立つことができるんだ』という喜びで胸がいっぱいでした。案内が来たときには『1億円もうかる仕事が目の前にあっても、島に行きたい』とすぐに参加を決めました。それだけ島が遠い存在だったんですね。島に行けるのは、夢のようなことでした」
――5月11日に根室市の花咲港を出た船は、国後島の古釜布に向かいます。期待は大きかったのではないでしょうか。
「期待もありましたが、内心おっかなびっくりでしたよ。ロシア人にどんな対応を受けるのかとそわそわしていました。でもロシア人島民は本当に温かく迎えてくれましたね。ロシア伝統のもてなしで、パンと塩で歓待してくれました」
――ロシア人島民との交流の場も設けられました。話の中で、印象に残っていることはありますか。
「『仲良くしよう』『経済を発展させよう』と、何人もの人が言ってきましたね。中には『私たちも一緒に住みたい。影井さん、何をやったらお金もうけをして幸せな生活ができますか』と、日本人と暮らすことを現実的な問題として聞いてくる人もいました。そういうムードは非常に強かったと感じます。『日本人なんか来るな』という人はいませんでした」
――領土問題についても議論できたのでしょうか。
「そもそも外務省から、『返還』の言葉は使わないように言われていました。でも、『返還』という言葉は元島民の頭から離れなかったんです。ビザなし交流を続けることで、本当に北方領土が日本に返還されるのだろうか、と思っていましたから。ロシアの占領が始まり、当時ですでに40年以上たっていましたからね」
「そんな中、色丹島での食事会の時に、元島民の1人が『私はここで生まれ育った。仲良く生活したいから、ロシア人の皆さんも協力してほしい』という趣旨のことを言ったんです。その人が話し終わったら、ロシア人が立ち上がって『子どもも孫もここで生まれた。日本の皆さんだけがここで生まれたんじゃない』と反論しました。それでなんとなく変な空気になってしまい、その後『返還』ということには一切触れられませんでした」
――ビザなし渡航で国後島に上陸したのは、そのときが初めてだったそうですね。島の様子は変わっていましたか。
「日本人が住んでいた家は1軒もありませんでした。『日本人の痕跡を残すな』と全て焼いたり、壊したりしたと聞いて悲しくなりました。それでも国後島では生まれ育った家があった近くを通って、島での生活を思い出しましたね」
――どのような生活だったのでしょうか。
「私は国後島中部で生まれ育ちました。父は島内でも3本指に入るようなタラバガニ漁師の親方で、馬も飼っていました。漁業でもうけた金で馬を買って、軍馬を育てていたんです。いい値段で売れました。だから最高の暮らしでしたね」
――その生活が、終戦で大きく変わりました。
「ソ連兵が国後島に上陸した9月1日は天気のいい日で、私は山で草刈りをしていたんです。すると、はるか水平線上に黒い点が二つあるのが見えました。旧ソ連の船でした。自分が当時住んでいた自宅の前の砂浜にダーンと上陸して、銃剣を構えた50人とか100人くらいの兵隊が降りてきました。そのときは腰を抜かしましたよ。初めて外国人を見たわけですから」
――その後、日本人は島から脱出し始めましたね。
「私の集落では9月の終わりごろ、発動機船を持っている人が夜に脱出を始めました。集落に動揺が走り、それからは毎晩毎晩大人たちが集まって『これからどうする』の話し合いです。その間にも1軒、また1軒といなくなっていきます。集落には木材との交換で日本軍から入手した米が豊富にありましたし、魚もいくらでも取れました」
「根室も釧路も空襲に遭って焼け野原になっているのは分かっていましたから、『泡を食って逃げないでもいいんでないか』という意見もありました。私の家族は知り合いの家から『一緒に逃げないか』と誘われ、焼き玉エンジンの船に乗り込んで島から脱出したんです。1945年11月のことでした」
――92年の最初のビザなし交流では、国後、色丹、択捉の3島を巡って根室に戻りました。交流を終えてどんな感想を持ちましたか。
「四島一括返還を求めなければ、平和条約は結べて、島に自由に行き来ができると確信を持ちましたね。『返還』という言葉への硬い反応はあったけど、『一緒に生活したいですよ』って言う人が何人もいたんですから。あれは口先だけではなく、本当の気持ちだったと思います」
――最初のビザなし交流から30年がたち、その気持ちは変わったと思いますか。
「島にはスーパーができ、道路も舗装が増えました。でも、『一緒に住もう』という気持ちは変わらないと信じています。交流を通じ、ロシア人は個人的に付き合うとお人よしなんだと分かりました。でも、集団になると雰囲気が変わってしまうように感じます。本当は、もっと突っ込んだ話ができていいと思うんですけどね」
――ビザなし交流は、今後どうあるべきでしょうか。
「残念ながら領土問題に何もプラスになっていません。このままの形式でやっても無駄だと思います。住民たちは仲良くなったけど、返還にはつながっていません。新型コロナウイルスの影響で2年間中断していますが、いったん何年か休憩し、お互いに頭を冷やしてビザなし交流について考え直してみてもいいのかもしれません。時がたっても、島は永久にあり続けるわけですから。現実を踏まえて再検討すべきだと思います」
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