ビザなし交流で日本側の第1陣は1992年5月11日、根室・花咲港を出港し、6泊7日の日程で国後、色丹、択捉の3島を訪れた。参加した元島民は12人。健在の3人に当時の様子や、30年たった今の思いを聞いた。(北海道新聞2022/1/3根室支局 武藤里美、黒田理)
■「返還」頭にずっと 影井豪之助さん(90)=国後島出身、釧路市在住
ビザなし交流への参加が決まったときは喜びでいっぱいでした。「生まれ故郷に渡れる。島に立つことができるんだ」と。当時はそれだけ島が遠い存在でした。夢のようでした。
国後島に向かう船ではロシア人にどんな対応をされるか、おっかなびっくりでした。でも温かく迎えてくれ、「一緒に住もう」「仲良くしよう」と何人もの人に言われました。
日本人が住んでいた家は残っていませんでした。それでも私の家のあった場所の脇を通ると昔の生活を思い出しましたね。父は島内で3本指に入るようなタラバガニ漁の親方でいい暮らしができていたんです。
外務省からは「返還」という言葉は使わないように言われました。でも、われわれの頭から離れませんでした。色丹島での食事会で元島民の1人が「私はここで生まれ育った。仲良く生活したいからロシアの皆さんも協力してほしい」という趣旨の発言をしました。
するとロシア人が立ち上がり「私の子も孫もここで生まれた。日本の皆さんだけがここで生まれたんじゃない」と反論したのです。それで変な雰囲気になり、皆黙ってしまいました。
それでも「一緒に住もう」という気持ちは本当だったと思いますし、30年たった今も変わっていないと信じています。個人的につきあうとロシア人はお人よしだと分かりましたが、領土問題にはプラスになっていません。現実を踏まえ、交流のあり方を再検討してもいいのかもしれません。
■ロシア人の「息子」 得能宏さん(87)=色丹島出身、根室市在住
第1陣で色丹島の穴澗に入ったとき、小学校の子どもたちが大勢、桟橋で出迎えてくれました。日の丸とロシアの国旗を振ってね。僕は上陸して靴を脱いで、桟橋の隣の砂浜を歩いたんだ。熱いものがぐーっとこみ上げてきました。
それまでにも北方領土墓参で色丹島には来ていました。でも墓参とは雰囲気が違う。墓参ではロシア人との交流はありません。何しに来たんだ、という感じがありました。ビザなし交流で訪れ、ようやくふるさとに来たんだなという気持ちになりました。
ビザなしは彼らの方から先に(4月に)来てくれた。僕は感銘を受けましたね。日本人と交流したいという表れでしょう。
30年たっても島が返ってこないから、続けても仕方ないという声も聞きます。でもそう決めつけられるでしょうか。返還につながらないと結論を出すのは早いと思います。教育と同じで、すぐに費用対効果を求めるものではありません。
僕が「息子」と呼ぶ色丹島生まれのロシア人がいます。十数年前「元島民と友達になりたい」と言うので「親子になるか」と。人間はふるさとを恋しがります。同じ色丹島で生まれたから、彼もその思いを大事にしてくれています。
人と人とのつながりがないと国は動かせません。ビザなしをなくさないでほしい。表だって言えなくても、島を日本に返して一緒に暮らしたい、と心の中で考えているロシア人はたくさんいると思います。
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