北方領土の返還を願い、話芸の世界で運動を後押ししている落語家がいる。三遊亭金八さん(50)。歯舞群島・志発(しぼつ)島の元島民2世だ。北方領土に接する北海道根室市で生まれ育った。ロシアによる実効支配は76年に及び、この問題を人々の心にどう響かせるのか、難しさを感じている。(朝日新聞2021/9/29)
高座で金八さんはこんな話をまくらに交える。
パソコンで「しぼつ」と打っても、一度では「志発」とは出ない。「北方領土もパソコンも、ヘンカンが肝心です」
「変換」を「返還」にかけたシャレに気づかぬ客はいない。ただ、足元はおぼつかなくなりつつあるのではないか――。
新型コロナの3度目の緊急事態宣言が解除になった6月下旬。金八さんは、都内のロシア料理店で久しぶりにウォッカを飲んだ。ビザなし交流で訪れた択捉(えとろふ)島のロシア人家庭でごちそうになった味を懐かしく思い出した。「あの時も、ほんとうにうまかったなあ」
直後にがくぜんとした。「あれ? 心の中では択捉イコール、ロシア料理・ウォッカ。これって、無意識のうちに北方領土をロシア領と認めていないか?」。元島民2世の自分ですらこんな感慨を抱くのか。
父の木村芳勝さん(87)は歯舞群島で最大の志発島で生まれた。家族は豊かな海の恵みを受けてコンブ漁を営んでいた。10歳だった1945年9月、ソ連軍の侵攻で島は突然占領される。強制退去で島を追われた一家8人は、樺太(現ロシア・サハリン)を経て函館に上陸した。その後、志発島が見える根室に移り住んだ。
「返せ! 北方領土」。そんなスローガンに日常的に接しながら育った金八さんだが、父から志発島のことを詳しく聞いたことはなかった。北方領土の歴史と現状に関心が向いたのは、高校卒業後、19歳で入門して落語の道を歩み始めてからだ。
高座に欠かせない着物に家紋を縫い込もうと父に形を尋ねた。「島を離れるときに着物を米と交換したから、家紋は残っていない」。元島民の過酷な体験を実感させられた。
志発島を初めて訪れたのは2002年。12年の修業を経て真打ちになったこの年、ビザなし交流事業に参加した。父ら元島民に同行して、旧居住地跡などを巡った。
自宅があった集落跡には辺り一面に草原が広がっていた。自宅跡も草むらの中に埋もれ、すぐにはわからなかった。旧日本軍の壕(ごう)の近くにあったという父の記憶を頼りに探すと、玄関の引き戸を支えた、さびたレールが見つかった。「ここに間違いない」。父はそうつぶやいて涙を流した。
近くに落ちていたホタテの貝殻に親子の名前を書き、跡地に置いてきた。「きっと帰ってくる」との思いを込めて。
金八さんは、ほかの元島民たちの反応にも驚いた。草原が広がるだけの風景を指さし、まるでそこに集落の暮らしが見えているかのように語る。「島民の皆さんにはきっと、本当に見えていたんだろうね」
今年の「北方領土の日」の2月7日、東京であった北方領土返還要求全国大会では司会を務めた。今年のテーマは「伝えよう」。金八さんは政府要人の名前をおり込んだ都々逸を作って、それぞれはがきを送った。
菅義偉首相には「すがよし=すったもんだも がんばるバネに よんとう解決 しっかりと」。茂木敏充外相には「としみつ=とめずに交渉 しっかり頼む みんなの思いを つみかさね」。そして河野太郎・沖縄北方相には「こうのた=ここで一番 うごかす力 のがさず返還 たのみます」
「噺(はなし)家だからね。拳を突き上げるシュプレヒコールは苦手でね」。声高な返還運動には行き詰まりを感じないでもない。「文化芸術で政治が変わることはないかもしれないが、自分なりのやり方で、特に若い人たちの関心を引き寄せられたら」。落語だけでなく、SNSでも積極的に発信している。笑いの場に政治ネタを持ち込むのは禁じ手だとわかってはいる。だが、あえて新境地に挑みたい。
「状況は厳しいが、言い続けることが大事。傲慢(ごうまん)かもしれないけど、自分の持てるスキルを生かして発信する。それが、元島民2世としての義務だと思うから」(阿部浩明)
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