終戦が近づく1945年2月、米英ソ三国首脳によるヤルタ会談が行なわれた。その、「ヤルタ密約」の情報を、いち早くつかんだ日本人武官がいた。【小野寺信とイワノフことリビコフスキー(『日本・ポーランド国交樹立80周年記念誌』より)】(Voice 2021/9/16)
終戦が近づく1945年2月、米英ソ三国首脳によるヤルタ会談が行なわれた。その、まさに連合国のトップシークレットである「ヤルタ密約」の情報を、いち早くつかんだ日本人武官がいた。そこには、国境を越えて結ばれた、諜報に生きる者たちの命を懸けた友情と信頼があった。
世紀の機密情報を日本に打電
先の大戦が終結してから、75年余りになるが、戦争の「負の遺産」の最たる例が北方領土問題であろう。1945年8月9日、ソ連は当時有効だった日ソ中立条約を侵犯して、満洲、南樺太に侵攻。日本が14日、ポツダム宣言の受諾を決め、15日に終戦の詔書が出されたあとも、日本固有の領土である千島列島に侵攻。北方四島は現在まで不法占拠の状態が続いている。
当時の日本にとって、ソ連の裏切りによる対日参戦は日本の敗戦を決定づけたが、それは連合国首脳のあいだですでに取り決められていたことだった。
同年2月4日から、クリミア半島の保養地、ヤルタでアメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相の三巨頭が一堂に会した。
このとき、「ソ連はドイツ降伏より3カ月後に、対日参戦する」といういわゆるヤルタ密約が交わされていた。対日参戦の見返りとして、日本領南樺太の返還と千島列島の引き渡しなど、広範囲な極東の権益をソ連に与えることも確約された。
この連合国のいわばトップシークレットであった「ヤルタ密約」を、会談直後に密かにつかんだ日本人がいた。スウェーデン公使館付武官、小野寺信(まこと)少将である。小野寺は独自の情報網でヤルタ密約情報をキャッチし、機密電報で日本の参謀本部に打電した。
このとき、小野寺が入手した情報は、いわゆるヤルタ密約のうち、「ソ連はドイツ降伏より3カ月後に、対日参戦する」という根幹部分である。繰り返すが、敗色が一段と濃くなった日本にとって、ソ連の参戦は敗北を決定づける重みがあった。それはまぎれもなく、国家の運命を決める世紀のスクープであった。
ところが、残念なことに、この「小野寺電」は大戦末期の日本の政策に活かされることはなかった。参謀本部内でソ連に傾斜する「奥の院」に情報そのものを握り潰されてしまったからである。当時の日本には共産主義国家のソ連に幻想を抱き、終戦の仲介を期待した勢力が、少なからずいた。
それにしても、小野寺はどのようにして密約の存在を知ることができたのか。
独ソ戦が始まるという分析の決め手になったのは、ストックホルムの日本武官室に通訳官として勤務していたポーランドの情報士官、ミハール・リビコフスキーの情報だった。
ドイツのベルリンで情報活動する彼の部下から、ドイツ軍が開戦に備えてソ連国境に近いポーランド領内に集結し、棺桶を準備しているとの情報が入る。ドイツ軍は作戦開始の際、戦死者を弔うため事前に兵士の棺桶を用意する。ドイツ軍のソ連侵攻の可能性はきわめて高くなった。
こうした中、松岡洋右外相が訪欧した。モスクワで日ソ中立条約を結ぶ直前、1941年4月のことだった。しかしヒトラーは、同盟国の日本の外相にソ連侵攻を秘した。松岡外相は、表向きの独ソ蜜月を背景に日独伊にソ連を加えて、米英を牽制し、泥沼の日中戦争を終息できると夢想していた。
松岡外相を迎えて在欧の日本武官会議がベルリンで開かれた際、全員がドイツ軍の英本土上陸を主張するなか、一人小野寺だけは「ドイツはソ連に向かい、独ソ戦が必ずある」と訴えた。
すると、ドイツ駐在の西郷従吾補佐官は、「小野寺は英米の宣伝に惑わされている」と非難した。「英本土対岸の港を視察したが、上陸用舟艇が多数あり、上陸作戦用だった」からだというが、それはドイツによる「偽情報工作による攪乱作戦」だった。
独ソ戦開始の情報をもたらしたリビコフスキーは、小野寺にとって最大の情報提供者であると同時に、生涯の友ともいえるような存在だった。
リビコフスキーは、帝政ロシアの支配下にあったリトアニアで1900年に生まれ、ポーランド軍に入隊後、参謀本部第二部(情報部)でドイツ課長を務めた。しかし、ポーランドへの独ソの侵攻で祖国を失い、ラトビアの首都リガに逃れ、日本の陸軍武官室に匿われた。
1940年8月、そのラトビアがソ連に併合されてしまうと、ストックホルムの陸軍武官室に移った。第一次世界大戦後あたりから日本陸軍とポーランド陸軍は諜報で協力関係にあったからだ。日本がのちに真珠湾を攻撃し、日本とポーランドが交戦国になっても、二人の協力関係は続いた。
リビコフスキーは、ナチス親衛隊隊長のハインリヒ・ヒムラーが「世界で最も危険な密偵」と目の敵にしたほどの人物であり、ドイツの国家秘密警察(ゲシュタポ)に四六時中、命を狙われていた。
小野寺はそんなリビコフスキーの身を案じて、日本陸軍武官室の主任(通訳官)として保護していたのである。しかし、日本はドイツの同盟国であったとはいえ、密偵を匿う行為をナチス・ドイツが看過するはずがない。
ゲシュタポは何度も彼をドイツへ攫(さら)っていこうと試みたが、「リビコフスキーは日本の将軍の絶対的なサイドキックに守られていつも難を逃れ、相変わらずイギリスにも小野寺にもサービスを続けた」(ラディスラス・ファラゴー『ザ・スパイ』サンケイ新聞社出版局)。
それどころか、さらなる身の安全を図るため、親交のあったストックホルム公使館の神田襄太郎公使代理に依頼して、偽名ピーター・イワノフに漢字を当てて「岩延平太」名義の日本国のパスポートをつくり、与えたのである。ただし、小野寺は、このようなことを恩に着せて、その見返りとしてリビコフスキーに情報を求めることはしなかった。
ポーランドと日本の間に生まれた“絆“
加えて二人が親密な関係になったのは、リビコフスキーらポーランド人が、強い親日感情を抱いていたこともあろう。
18世紀よりロシアの侵略と圧政に苦しめられたポーランドは、日露戦争でそのロシアを打ち負かした日本に対し、驚きの目を向けた。日本軍は望まずにロシア軍に従軍したポーランド人の捕虜に対し、松山収容所(愛媛県)などで寛容に遇したが、これもポーランドの対日感情をよいものにした。
さらに両国の距離を縮めたのが、シベリア出兵中の日本軍が、ボルシェビキ(ソ連共産党の前身)に両親を惨殺されたポーランド人孤児765人を救出して、ポーランドまで送り届けた出来事だ。ポーランドの新聞は「日本人の親切を絶対に忘れてはならない。我々も彼らと同じように礼節と誇りを大切にする民族であるからだ」と報じた。
また1940年には、リトアニアのカウナス(ソ連併合前の首都)で領事代理だった杉原千畝が「命のビザ」を発給して6000人のユダヤ人を救ったが、その多くがポーランドから逃れてきた人たちであった。こうした歴史があればこそ、ポーランドは日本を「大切なパートナー」と感じていたのである。
リビコフスキーが果たした約束
リビコフスキーは1944年3月、ドイツの圧力に抗しきれなくなったスウェーデン政府から国外退去を命じられ、ロンドンのポーランド亡命政府に向かう。
このとき、リビコフスキーは小野寺に「(退去先の)ロンドンからも引き続き日本のために情報を送る」と約束する。その約束とは、リガの武官時代に家族ぐるみのつき合いをするなど、小野寺と旧知の仲であったストックホルム駐在ポーランド武官、フェリックス・ブルジェスクウィンスキーを仲介してロシア語で伝達することだった。
そして、1945年2月4日のヤルタ会談直後の同月中旬、小野寺のもとに「ソ連はドイツ降伏より、3カ月を準備期間として、対日参戦する」という日本の命運に関わる密約情報が届く。「小野寺信回想録」によると午後8時から始まる夕食前のことだった。
小野寺の自宅郵便受けに物音がした。らせん階段をアパートの最上階五階まで駆け上がり、「手紙」を投函した少年はブルジェスクウィンスキーの長男で、すなわち差出人はブルジェスクウィンスキーであった。
この「手紙」に書かれた情報をブルジェスクウィンスキーに送信したのは、リビコフスキーの直属の上司、ロンドンのポーランド亡命政府の参謀本部情報部長のスタニスロー・ガノであった。
バッキンガム宮殿に近いルーベンスホテルにあったポーランド亡命政府陸軍参謀本部に登庁し、ポーランド軍に復帰してイタリア戦線に赴いたリビコフスキーに代わり、ガノによって小野寺との約束は果たされたかたちとなる。
小野寺は直ちにソ連の参戦情報を参謀本部に打電したが、それが「奥の院」に握り潰されてしまったことはすでに述べた。
終戦後、日本に引き揚げる小野寺にガノは、次のようなメッセージを贈っている。
「あなたは真のポーランドの友人です。長いあいだの協力と信頼に感謝し、もしも帰国して新生日本の体制があなたと合わなければ、どうか家族とともに全員で、ポーランド亡命政府に身を寄せてください。ポーランドは経済的保障のみならず身体の保護を喜んで行ないたい」
祖国をソ連に奪われ、共産化の道を辿ったポーランドは、世界の誰よりも「スターリニズム」の恐怖を皮膚感覚で知っていた。ソ連が侵攻してきたら、ただではすまないことを熟知していたからこそ、小野寺にソ連参戦のヤルタ密約情報を伝え、さらに戦後の身を案じたのであろう。(岡部伸 産経新聞社論説委員)
終戦が近づく1945年2月、米英ソ三国首脳によるヤルタ会談が行なわれた。その、「ヤルタ密約」の情報を、いち早くつかんだ日本人武官がいた。【小野寺信とイワノフことリビコフスキー(『日本・ポーランド国交樹立80周年記念誌』より)】
コメント