海は荒れ、風の冷たい日だった。空には雲が広がり、少しずつ遠ざかる故郷は月明かりに照らされていた。「あそこが学校だ。あっちが家だ」。ぼろぼろと涙をこぼしながら、島影が見えなくなるまで甲板の上から眺めていた。「きっともう、島には行けないだろう」。9歳の少年は幼心にそう覚悟した。1945年(昭和20年)11月。影井健之輔さん(85)=根室市=は、家族4人と一緒に国後島から逃げた夜のことを克明に覚えている。(北海道新聞根室版2021/8/28)
同島中部の植内(うえんない)出身。家族はカニ漁を手がけ、影井さん自身も遊び場といえば海や川だった。「川に網を掛けて秋サケを捕まえたり、木の棒に針金を付けた手製のもりでスナガレイを取ったりした」。コマイやスケソウダラ、タラバガニとさまざまな水産物が取れた。集落には子どもたちも多く、冬は近くの丘でスキーをして遊んだ。
楽しい毎日が45年8~9月の旧ソ連軍の侵攻で一変した。植内からも次々に住民が脱出し、ほとんど人がいなくなった。
「これが最後の船になるよ」。そう声を掛けられ、国後島を後にした一家は、親戚のいる根室に身を寄せた。間もなく父と一緒に船に乗るようになり、漁師として独り立ちした。
61年8月、25歳のとき、歯舞群島貝殻島周辺でコンブ漁をしていて、僚船10隻とともに旧ソ連当局に拿捕された。
サハリンの裁判所に移され、裁判官から意見を求められた影井さんは思わず叫んだ。「俺たちの島だ! 返せ!」。自分が育った島なのに、そこで漁をして何が悪いのか。実効支配されている現実を分かっていても、認めたくなかった。
漁師を引退した2010年、ビザなし渡航の北方領土墓参に参加し、国後島を訪れた。故郷の痕跡を必死に探したが、家の土台も、茶わんのひとかけらすら残っていなかった。「人の住んでいた場所は、草むらになっていた」。それでも「小さい頃に魚を取った川は、変わらず悠々と流れていた」。
島にはきょうだいや祖父らが眠る。「歩けるうちにもう一度手を合わせに行きたい。線香をあげたい」。ビザなし渡航は新型コロナウイルスの影響で2年連続で全面中止になった。「島を返してほしい。でもまず自由に行き来できるようにしてほしい」。あの夜から76年、故郷への切ない思いは募るばかりだ。(武藤里美)
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旧ソ連軍が北方領土の択捉島に侵攻してから28日で76年。そこで暮らしていた人々は島を追われ、心の中で故郷を思い続けてきた。元島民は3分の1に減り、平均年齢は86歳を超える。これまであまり体験を話す機会のなかった元島民に故郷の思い出や、ビザなし渡航で訪れた際の印象などを聞いた。(4回連載します)
旧ソ連軍は1945年8月28日、択捉島に上陸したのを皮切りに、次々と四島に侵攻した。終戦の同年8月15日時点で1万7291人いた島民たちは命からがら脱出したり、樺太経由で強制送還されたりして島を追われた。
外務省の発行する「われらの北方領土」によると、樺太から進撃したソ連極東軍は「米軍の不在が確認された北方四島に兵力を集中」させた。
四島の各役場と根室支庁(現根室振興局)などがやりとりした通信記録をまとめた道の公文書「千島及(および)離島ソ連軍進駐状況綴」には、ソ連軍の侵攻の様子が生々しく記されている。
これによると、ソ連兵は8月28日昼前に択捉島留別に到着し、1個大隊が上陸。同日深夜に役場職員らを国民学校に収容し、30日までに通信網を遮断した。
ソ連軍は9月1日から4日にかけて国後島と色丹島、歯舞群島でも日本兵を武装解除し、5日までに四島の占領を完了した。日本軍は抵抗せず、進軍は無血で行われたとされる。ただ、各地でソ連兵に島民が射殺されるなどの悲劇が報告されている。
故郷の国後島・植内に建つ墓標の前で手を合わせる影井さん(2019年6月の自由訪問で)
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