色丹島の神秘とアイヌ

色丹島の神秘とアイヌ

著者イーゴリ・コッツ(ロシースカヤ・ガゼッタ2021/5/13)

 75年前、私の祖父は、日本から奪還したばかりの色丹島アレクサンドル・ネフスキー(中世ロシアの英雄)が描かれたイコンを発見した。

 1946年5月24日、ソ連科学アカデミーとアムール地域研究協会の科学者、経済学者、生物学者、地理学者、地質学者、民族学者ら11人がウラジオストクのブーフタ・ザラトーイ・ローク(金角湾)から汽船スヴェルドロフスクに乗って南クリル諸島に向かった。

 

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ウラジオストクを出発する前に。汽船スヴェルドロフスクに乗船したクリル遠征隊。ボラード(係船柱)に座っているエフフィム・テレシェンコフは経済・地理学者として遠征に参加した。1946年5月24日。(写真: イワン・クワチ「千の島を巡る1946年のクリル探検」より)

 

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祖父エフフィム・テレシェンコフ(写真: イワン・クワチ「千の島を巡る1946年のクリル探検」より)

 

記憶のスナップショット

 彼らの使命は、日本から解放されて1年もたっていなかった島を私たちの国のために、「再発見」することだった。火山と温泉を調査し、岩のサンプルを収集し、詳細な報告や地図を作成し、将来的な島の発展を予測するためだった。遠征隊は、厳しい冬が来る前に、4カ月で膨大な科学的な調査研究を行わなければならなかった。

 それは実に賢明なことだったが、遠征隊の中に誰かの決定によって、カメラマンが含まれていたのだった。汽船スヴェルドロフスクの出発前に、記念写真を撮ったのは、最前線の兵士イワン・クワチだった。

 ボラードに座っているキルトのジャケットを着た人物が私の祖父エフィム・ヤコブレビッチ・テレシェンコフである。

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1945年5月24日、エフフィム・テレシェンコフは経済地理学者として遠征に出発した

 

経済地理学者の下書き

 彼はベラルーシの農場労働者の息子だった。第一次大戦とその後の革命を極東で体験した兵士。生物学者、教師、民族学者、作家。レーニン勲章と労働赤旗勲章–それが、私が知っている祖父のすべてだった。1946年の遠征に、経済地理学者として参加していたことなど全く知らなかった。

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色丹島の湾内に停泊する汽船スヴェルドロフスク(写真: イワン・クワチ「千の島を巡る1946年のクリル探検」より)

 

 結局、これは忘れ去られた遠征だった。その忘れ去られた遠征が、私たちに知られるようになったことは素晴らしいことだ。

 写真家イワン・クワチは骨身を惜しまず働き、南クリル諸島への遠征で2000点の写真を撮った。彼の写真は火山、湾、チシマザサの茂み、地質サンプル、そして島々の日常–当時はまだ本国に送還されていなかった日本人がいた。そして私たちの軍隊、本土から入植してきた人々が混住していた。

 イワン・クワチの20枚の写真が、遠征隊員の科学的調査のすぐの後に公開された。残りは消えてしまった。

 そして65年後、アムール地域研究協会(ロシア地理学会)のほこりをかぶった棚から、きわめて貴重なフイルムや文書が、サハリンのアーキビスト、マリーナ・グリディアエワによって偶然発見された。そして彼女と同僚はそれらを素晴らしい写真集にまとめた(5年間の骨の折れる、退屈な手間のかかる仕事。だがインスピレーションを与える素晴らしい仕事)。彼女は「Rodina」№9(2015)で、それについて語っている。

 貴重な写真は、科学者が走り書きしたメモに寄り添うよに撮られていた。彼らは時々、この下書きをウラジオストクに送った。鉛筆で書かれた下書きは編集されておらず、感情にあふれたものだった。その中には、経済地理学者エフィム・テレシェンコフのレポートもある。戦後、南クリル諸島アイヌの状況に関する分析を作成した最初の研究ノートである。

 

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祖父が写真の裏に書きとめた1946年の南クリル諸島についてのメモ(写真: イーゴリ・コッツのアーカイブから)

 

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そして遠征のほぼ10年後に出版された本(イーゴリ・コッツのアーカイブから)

 

 「ご存じのように、かつて日本人は北の島々からアイヌ(※千島アイヌのこと)を強制的に移住させた。ロシア語を話し、ロシア正教を信仰していた元ロシア人たち。現在、色丹島アイヌは存在していなかったが、正教会(※色丹島・斜古丹にあった聖三者教会)の遺物、教会の書物、アレクサンドル・ネフスキーのイコン、そして小さな墓地に35の十字架が残っている」

 このイコンはいまどこにあるのか。祖父は答えようとしなかった。

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調査中の経済地理学者エフィム・テレシェンコフ(写真: イワン・クワチ「千の島を巡る1946年クリル探検」より)

 

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遠征中、調査行う経済地理学者エフィム・テレシェンコフ(写真: イワン・クワチ「千の島を巡る1946年のクリル探検」より)

 

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遠征中、調査行う経済地理学者エフィム・テレシェンコフ(写真: イワン・クワチ「千の島を巡る1946年のクリル探検」より)

 

初めての喝采

 我が家のアーカイブにはエフィム・テレシェンコフの「一日の始まり」という薄い本がある。1955年に発行された。ロマンチックなカバーの下に、学生の面白い冒険話、クリル諸島の遠征に行った大人たちの面白い話が収められている。この本には1946年の遠征の現実を垣間見ることができるエピソードがたくさん含まれていた。しかし、私の祖父は10年たった後でも、島で実際に何をしたのか、何を見たのかについて話すことはできなかった。

 彼が私に話してくれたのは1960年だった。

 5年前、ユジノサハリンスクで開かれた国際会議「第二次世界大戦と現在からの教訓」で、写真集「千の島を巡る1946年のクリル探検」が発表された。それは科学的偉業と呼ばれた。そして1946年の数カ月の調査によって、11人の禁欲的な科学者たちは地質学、水路学、地形学、そして歴史学において多くの空白を埋めた。これらはその後何十年にもわたり、基礎資料となっている。

 写真集が発表された時、汽船スヴェルドロフスクの甲板で撮られた記念写真が映し出され、ボラードに座っているのが私の祖父だと説明した時、厳格な科学者たちは突然、拍手喝さいを送った。その瞬間を私は決して忘れないだろう。

 

 

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